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いーとあーとブログ

展覧会情報(旧ギャラリーどらーる掲示板より)

2017'07.26.Wed
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2007'01.16.Tue
個展『富田 知子展』 投稿者:久保 元宏 投稿日:2004/10/27(Wed) 11:03 No.2078  
 

~~ 豊潤な未完成の重層の中へ ~~

もはや私(たち)は「成熟」に魅力を感じるほど若くは無い。
退屈な答えよりも、野蛮な質問に可能性のヒントを求めようとする。そんな時、優れた絵画は私の前に野蛮な質問として立ちはだかる。
記憶の重層が小説であるとすれば、感情の重層が絵画なのだろうか。しかし残念ながら私には、「記憶」とは何かを説明することはできるが、「感情」とは何かを説明する能力は持ち合わせていない。
例えば『否んだ祈り』(F130)の画面上を右上から左下に向けて不安定なドロッピング・ラインのように引かれた厚みのある細い線。その線は当然のように漆喰のような絵具で塗り消され、線の厚みのみが遠い記憶のように印象的に残されている。
ここまでは現代絵画の常套手段なのだろう。ところが、その消された線の右上のほんの少しの部分のみに、ためらい傷のような茶色い線がかすかに慎重に引かれつつ、途中でその作業が止められている。
いわゆる「ストロークの快感」があるとすれば、これは「末端過敏症の病歴」であろう。

画家の持つ野蛮は衝動的に見える大胆な筆さばきだけではなく、どうしようもなく細部にこだわる習性にも宿っているのだ。このように野蛮は、相反する方向の力学にも宿っている。
画家の孤独な作業の途中で自らの野蛮に気が付いた時に、それに対峙する理性を置こうとすれば、絵画が持つことができる唯一の言葉の場所は絵の題ということになる。
しかしそれは危険な場所でもある。必要以上に画家の弱味を見せてしまう場合もあるからだ。
富田の場合は、その危険に無防備に乗る。そもそも先にあげた『否んだ祈り』という題などは、過剰な説明をしてしまっている。
直線を垂直と水平に重ねれば十字架になり、それを45度傾斜させれば否定を意味するバツになる。その発見こそが富田のパテント(?)である。
本来は相反する概念である「祈り」と「否定」とは、たったの45度傾斜の差しかない、と言う発見は強烈に現代的なメッセージを持つのだがそれを題=言葉にしてしまわなければ気がすまない過剰さが富田の身の上である。
だがこうして弱点になる危険性を犯してでも成熟よりその手前の偉大なる未完成のまま路上の店開きを繰り返す作者の意志を感じる。

このように今回の個展の絵の題は形容詞や副詞で名詞を説明するパターンが繰り返されている。たとえば、『渇いた領域』(F100)『渇いた伝言(翼)』(F100)のように。
ポジティヴな名詞をネガティヴな装飾で別の意味にするのは初級詩人の好む作業だが、富田の作品の前で重要なのは、あえて説明に近い題を選んでいる作者の切なる触媒への強い意思であろう。
そうであるならば、富田は観る者に何を伝えたいのであろうかという方向へ興味は動く。
富田の作品に登場する魅力的な形状として、十字架の他に楕円がある。それは雲なのか、卵なのか、繭なのか。
十字架や×がどんなにそれぞれ固有の方向性で主張しようとも重力の中での相対に過ぎないという男性的な社会的存在に対峙するかのようにその楕円は重力にも方向性にも自由に描かれている。
そう気が付いてから『渇いた領域』を見直すと、画面いっぱいに大きく描かれた十字架と背景との間にあるいびつな隙間にドキリとさせられる。
十字も円も外へ向かおうとする運動が生む形状である。しかし何故、十字架やバツは死の匂いがするのに、円は生の可能性を感じさせてくれるのだろうか。
円には外に向かう運動と同時に内側に向かう運動も内包されているからではないだろうかと思う。
そう考えれば十字架が隙間(=渇いた領域?)を背負う構図が、富田の選ぶ独特の色で描かれた時の凄みが理解できるような気がする。
論旨がいきなり図式的になって恐縮だが、十字架と×が男性社会及び男的なものの象徴であるのに対して、楕円が女性的なものの象徴であると考えてしまいたい。
この楕円は、繭なのだ。繭、つまり生命が育まれる場所。または豊潤なスタート・ライン。
富田が少女を描こうと模索していることと同じ作業である。
やや目の吊りあがった硬質な印象の少女は、繭から出てきて十字架とバツが共存する社会に立たされた存在なのだろうか。

絵に登場するモチーフは、こうして次から次へ前出のイメージを相対化してゆく。
『渇いた伝言』(F150)ではもはや人間そのものが繭となり、人間とは卵から生まれた卵なのだと言う入れ子状態の「希望」が厳しく描かれる。
そこでは十字架すらも繭化しようとしている。浮かぶ繭は天使なのか?確かに少女と天使のイメージは、いくつかの既成概念で重ねることができる。
しかし富田は微笑む少女を描かないように、『渇いた伝言(翼)』では脆弱しきった翼を、死のイメージで描く。
こんなに厳しい画風で翼を描いた画家は、かつていただろうか。
つまり、確かに少女も天使も象徴として描かれてはいるのだが、既成概念のそれではなく富田の独自の象徴であるのだ。
視点を変えて言えば、既成概念をなぞるような誤解を生む絵は排除する必要があったのかもしれない。
ここに至って今回の富田個展の最重要作品を、私たちは脳裏で反芻する権利を獲得する。
それは個展に飾られないことによって、最大の役割を果たす作品『彼女にだって羽根がある』だ。
同じギャラリーどらーるの1~2月に本展の予告として飾られながら、今回には合わないと最終段階で展示されなかった絵だ。
春をイメージさせる暖色を背景に繭のような豊潤な腰を持った女性が大きな羽を掲げる作品である。
とても魅力的な絵なのだが、観客の期待を先回りした象徴の羅列と見えるかもしれない。
今回の『渇いた伝言(翼)』がその絵と対になって冬をイメージさせると感じるのは私の妄想だろうか。
展示されなかった絵がポリフォニーを演出しているのだ。
こうして偉大なるゆらぎが作家の中から螺旋状に放出されてゆくのを、「感情の重層」であると説明するのは薄っぺらであろうか。そのようなことなど延々と思いつつ、そろそろいつものように私は個展の最後に最も気に入った絵の前に立ってから会場を去った。
それは『作品No.1』(25×30)。中央の白いしたたりが、繭のように見えながら、さらに全体が繭の部分のようにも見える。この絵の記憶を深く自分に刻み込んで歩き出すのは幸福なことだ。
きっと作者自身もこれからの自分の目標は完璧な曲線の繭を描くこと、と感じているのではないだろうか。

そう思いながら私はギャラリーどらーるから屋外に出た。すると、遠くを歩いている人たちの輪郭がぼやけて見え、まるで繭があるいているように見えたのは、私が二日酔いのせいか?
それとも全ての人が十字架とバツを背負っているのと同じ理由で、全ての人は再び生まれてゆく繭であるからなのか?
何度でも生まれてゆく繭には、もはや成熟する必要は無い。



Re: 個展『富田 知子展』 竜馬@管理人 - 2004/10/27(Wed) 14:03 No.2080  

2080.jpg 久保さん、いつもに増しての労作で恐縮致しております。
1円にもならないのに、「ギャラリーどらーる」のHPを飾って頂きありがとうございます。

だけど、久保さんって不思議な方ですね。本格的に絵画作品と触れ合って日も浅いのに、絵描きが“グサッ”と来る視点を持ち合わせていることに驚きます。

こんなに個人的主観に基づいた評論は他に類を見ませんが、久保評論で書かれた絵描きさんには好評なんですよ。

そうか~・・、繭だったのか・・(笑)



『渇いた脳味噌(笑)』 久保AB-ST元宏 - 2004/10/28(Thu) 00:17 No.2083   HomePage

2083.jpg ■またまた、聖なるギャラリーどらーるの赤インクを無駄遣いしてしまい、繭にこもりたい気分です(笑)。

■そもそも、激しくも冷たい雨の降る沼田町の大徳寺で喪服の竜馬夫妻とすれ違ってから数時間後、私は喪服の繭から羽ばたき、ススキノの呑んだくれ蛾となっておりました。日本酒、焼酎、ウィスキー、生ビールと渡り歩き、最後に赤ワインが3本空いた時、たしか午前4時。1時間仮眠してからシャワーを浴びて、午前7時の高級リゾート・ホテルDORALに着いた時には、もうまぶたが繭のように腫れていました。で、その後は上記の私の作文通りです。
さらに、29歳の後輩に運転させて沼田町に帰って、午前10時からの告別式に参列させていただいたしだいでございます。
竜馬夫妻におかれましては、わざわざ沼田町まで来ていただいたのに、焼肉接待もせずに大変失礼をいたしました。ぺこり。

■ところで、私のホームページ『共犯新聞』のアドレスが、
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/3973/
から、下記に変更いたしました

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/

ので、「お気に入り」のアドレス変更をお願いいたします。
なに?「お気に入り」ではない?
こりゃまた失礼いたしました~(がくっ)。



Re: 個展『富田 知子展』 竜馬@管理人 - 2004/10/28(Thu) 12:58 No.2089  

2089.jpg 文中にある

『ここに至って今回の富田個展の最重要作品を、私たちは脳裏で反芻する権利を獲得する。それは個展に飾られないことによって、最大の役割を果たす作品『HARU・彼女にだって羽根がある』だ。
同じギャラリーどらーるの1~2月に本展の予告として飾られながら、今回には合わないと最終段階で展示されなかった絵だ。』

は、私のレスに添付したのですが、色味が違うとの指摘がありましたので、再度添付します。
この写真に写っている方々が、今回の展示から外すことを主張しました(笑)。



『彼女にだって羽根がある』 久保AB-ST元宏 - 2004/10/29(Fri) 21:33 No.2098   HomePage

2098.jpg ■『彼女にだって羽根がある』という題を読んで、
羽有(はる)という名前の女性を思い出しました。
添付の方が、そうです(がくっ)。
ちなみに、2001年生れです。
写真では、どうやら『アタイにだって羽根がある』とアピールしているようですが(再度、がくっ)。

■そんなワケで、上記の感想文(?)のタイトルを、当初は、
~~ 不在のポリフォニー ~~
にしようか?と思ってもいました。
しかし、選ばれなかった(=失われた&死んだ)作品よりも、選ばれた(=残った&死ねなかった)作品に支点を置くべきである・と、特に今回の個展は私に語りかけていましたので、タイトルとしては、ぶかっこう(=豊潤な未完成・笑?)ですが、相応しいほうを選ぶのが詩人の役割(←誰が?)ですもんで、こーしました(三度、がくっ)。

~~ 豊潤な未完成の重層の中へ ~~

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