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いーとあーとブログ

展覧会情報(旧ギャラリーどらーる掲示板より)

2017'10.18.Wed
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2007'01.05.Fri
旭川に 投稿者:竜馬@管理人 投稿日:2003/07/20(Sun) 19:45 No.468  
 

今日は家人と旭川に行って参りました。画像は22日にUPしようと思います。

■神田美術館(神田 一明・比呂子作品展示館)
神田 一明さんは2001年6月に個展をして頂きました。
http://d1.doral.co.jp/gallery/kako/2001/june/index.html
先日全道展でお会いした時に、お約束していた美術館の訪問でした。
見晴らしの良い高台に位置し、木立に囲まれたきもちの良い場所で、庭にはエゾリスが走り回わる様な処でした。

■ギャラリー シーズ
オーナーの久木さんには、何度か当社ギャラリーのオープニングパーティーにお出でいただいておりましたので、旭川に来たからにはしなければならない表敬訪問でした。
とても美味しいコーヒーをご馳走になりました。展覧会は、「夏の風景画展」をやっておりました。

■梅鳳堂
鯉江 良二作陶展をやっておりましたので、フラッと入ったのですが、奥で李禹煥のリト(新作含)も展示販売しておりました。

■旭川市彫刻美術館
舟越 保武展を見に行きました。「原の城」(第3回中原悌二郎賞受賞作品)のキリシタン農民兵士の顔の哀しみに心打たれました。
2階の所蔵常設展示場も素晴らしい作品が多いので驚きました。

それにしても旭川市は街中にも多くの作品が設置されており、まさに「彫刻の街」の趣を感じました。




Re: 神田 一明・比呂子美術館 竜馬@管理人 - 2003/07/22(Tue) 10:00 No.472  

472.jpg 画像を掲載いたします。
内部の雰囲気です。



Re: 神田 一明・比呂子美術館 竜馬@管理人 - 2003/07/22(Tue) 10:04 No.473  

473.jpg 神田比呂子さんの作品画像も掲載いたします。
画像をクリックすると大きな画像になります。



Re:旭川市彫刻美術館 竜馬@管理人 - 2003/07/22(Tue) 10:17 No.474  

474.jpg 「舟越 保武展」は撮影禁止でした。
「美術館所蔵作品展」で舟越 保武さんのご子息舟越 桂 さんの作品「そこだけの冬」を掲載いたします。
1997作。第26回中原悌二郎賞 優秀賞(代替作品)



Re: 旭川市彫刻美術館 竜馬@管理人 - 2003/07/22(Tue) 10:20 No.475  

475.jpg 「美術館所蔵作品展」で細川 宗英さんの「道元」も迫力がありました。
1972作。第3回中原悌二郎賞 優秀賞


  私も行ってきました♪ 久保AB-ST元宏 - 2003/08/11(Mon) 05:54 No.526   HomePage

526.jpg 中年の特権とは何だろう?
今日、私は分かった。
中年の特権とは「再会」である(笑)。
若い世代は「出会い」がスリリングである。しかし、「再会」のスリリングさを味わえるほど忘却を入手できていない。
老人は「再会」したくても、どんどん周りの友人&知人がいなくなる(=死ぬ・笑)から、「再会」できない。

今日、昼のテレビ『アッコにおまかせ!』のコーナーで視聴者の小学五年生からの質問で、
「漫才師の林家ペーの、”ペー”ってカタカナですか?ひらがなですか?」というのがあった。
夫婦コンビでテレビのバラエティ番組で、派手な衣装と、ゆるいギャグをかます林家ぺーだが、妻が林家パー子なので、誰もが”ペー”はカタカナであると思っていた。
かく言う私もカタカナであろうと思っていた。
しかし、本人のコメントによると、林家三平の弟子として入門した時に「お前はまだ”ぺーぺー”だから」との理由で林家平平という芸名を頂戴したそうな。
さらに時は過ぎ、林家平平が面倒臭いので、林家平となり、平では「たいら」と読まれるので「ぺー」にしたそうだ。
だから、ひらがななんだって。
へぇ~。
林家ペー&パー子の特徴は観光客のように首から下げたカメラでテレビ番組本番中にパチ&パチと写真を撮ることである。
こうして、私の写真な一日は始まったのである。

私にとっての手元にあるカメラと言えばキャノンIXYのみである。しかも、デジカメじゃあない(笑)。
今日、20年ぶりに「再会」する古い知り合いをカメラに収めようとニューヨークの古本屋ストゥランドで買ったトート・バッグに詰め込む。
カメラのフィルムの残数があと1枚だけだったので、セルフ・タイマーで「マヌケな中年の休日」というタイトルの写真を撮影する。
カメラに新しいフィルムを入れて、ニューヨークの古本屋ストゥランドのトートバッグに入れる。飛行場で和田くんの到着までに読む本として、今日、会場で会うだろう友部正人のエッセイと彼の夫人の写真でできている『耳をすます旅人』も入れる。吉田ルイ子の『サンディーノのこどもたち』も持っていこうか?いや、別にサインをもらいに行くわけじゃあないし。
んで、ミーのカーに乗る。外は久しぶりの雨。東京から来る友人の分も含めて自動車の後部座席に蝙蝠傘を2本、投げ入れる。
まずは今取り出したフィルムを現像してもらうために、それを預けに町内の写真館へ。
写真館!
むむむ。なんだか既にレトロな響きの言葉だ。写真屋、DPEストア、とか言うんだろうなぁ、今は。
デジカメ増幅中の現在、「写真館」は、NHK連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」という記憶の産物になる日も近いだろーね。


※本文が長すぎるため、続きはコメント欄に記載します。



Re:お疲れ様? 竜馬@管理人 - 2003/08/11(Mon) 06:24 No.527  

又来ましたね。『又、来るかも・・・』とは覚悟しておりましたが・・・。

折角の労作ですから、お盆休みにでも読ませて頂きます。

久保さん。あなたの『共犯新聞』日記欄で楽しませてもらいますから、この掲示板の為に無理されなくても良いですよ。

身体大事にされてください。

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本文の続き1
町内の写真館は自動ドアではない引き戸を開けると、目の前に新撰組が転げ落ちてきそうな重厚な木造の階段が威張って客を迎えてくれている。
「また、頼みます。」と、フィルムを写真館の主人に手渡す。
客が自分の名前も名乗らず、何を「頼む」とも言わずに「ほい」と軽く受け取るのも田舎ならではだろーし、「モノ」より「経験」を売れ!とゆー最近流行の経営コンサルタントの言うことって、こーゆーコトかもね。なんだ古い酒を新しい器に入れて売っている広告代理店手法か(笑)。

写真館の受付に、北海道上川管内の朝日町で開かれる写真フェスティヴァルのチラシを見つけた。
おお、朝日町、サンライズホールの”北海道☆文科系の鬼(←久保が命名・笑)”漢さんのトコじゃんか。
http://www6.ocn.ne.jp/~sunrise/

「このチラシ、朝日町の人が持ってきたの?」
「いや。メーカーの営業マンが置いていったのさー。」
「あはは。そーか。人口2千人の町にはそんなにスタッフ、いないしねぇ。」
「同じ上川管内でも、東川町の<写真の町>は有名だよ~。」
「あ、私、今日行きますよ(笑)、そこ。」
「<写真甲子園>とか子どもたちがやっているんだよね。」
「ええ。でも、今日はオトナ、プロのイヴェントみたいっス。すごいよねぇ~、2ヶ月以上の複合イヴェントだもんね。」
「ところで久保くん、どーして東川町が<写真の町>なのか知ってるかい?」
「あ?町おこし・・・?」
「ははは。東川町にはネ、昔、フジ・フィルムの現像所があったんだよ。」
「えっ!?」
「そー、そー。んで、ウチもさ、お客さんから預かったフィルムを東川町に届けて現像してもらっていたんだよー。」
「ふ~ん。」
そうだ。そう言えば、ここの写真館にコンピューター内臓の大掛かりなフィルム現像機が導入されてまだ数年だ。
「今ではウチも、コレでやってるけどさ、つい最近まではここら周辺のフィルムは東川町に一度集約されていたんだよ。」
なるほど。それにしても、個人の<思い出>が一度、集められて、そこでそれを紙に印刷して、また、各人に手渡される。
そーゆー、抽象的な<思い出>を具体的な<写真>に加工する工場としての、東川町、だったんスねぇ~。
私の脳味噌の中には<思い出>を缶詰から開けて、オイルにまみれて作業するキツネや猫の顔をした労働者が働く町工場のイメージがよぎった。んなワケないけど・さ。

写真館のオヤジは、チラチラと自分の後ろにある4m四方の現像機を見ながら、はたして今がいいのか不安そうな顔で話を続ける。
「なんで、東川町に大きな現像工場があったかというと、現像液の問題なんだよ。」
「現像液?」
「そうそう。現像液って有害なんだよ。」んなコトも知らねぇ~のか?とゆー風に。
「そー言えば微妙に酸っぱい匂いが危険な印象を感じさせますねぇ。」と、私は意味不明の合いの手。
「東川町にはその現像液を処理する施設があったんだよ。」
「へー。ケミカルに処理するんですね。」
「それが、なんだかっちゅー、貝を飼って、そいつらを通すと現像液の毒が消えるのさ。」
「ふにゃ?カイ?カイってシェルの貝?」
「そうだよ。」
「今はここの写真館みたく、それぞれで現像していますよね。ここにも、その貝がいるんですか?」と、相変わらずマヌケな質問だけはスグに出る私だ。
「あははは。今はポリに入れておいて業者が回収に来るんだよ。ウチもその処理費用に毎月3万円ほど経費がかかっているんだよ。」
その3万円が多いのか少ないのかは私にはよく分からないが、この世のどこかに<思い出>を<写真>にする時に出てくる<毒>を食べて生きている<貝>が棲んでいることを知って、なんだか得をしたよーな気分になった私だった(がくっ)。

ミーのカーは東京から来る知人が降り立つ旭川空港へ。

その車中、運転しながら反芻していたのは今朝の日本経済新聞の書評欄だ。
アメリカの新人作家アンソニー・ドーア(1973年生まれ!若い!)のデビュー作『シェル・コレクター』(新潮社)を翻訳家の青山南が書評していた。
こんな具合だ。

「短編小説集で、表題作は、その題名通り、アフリカのケニア沖の孤島で貝を集めている盲目のアメリカの人の老学者の話。訪問客のひとりがマラリアにかかるが、老学者が拾ってきた毒をもつ巻貝に食いつかれたことで、奇跡的に全快する。それで、世界からお客が殺到し、静かだった生活が乱れる。海の生き物たちの生態が簡潔に、かつ、映像的に描かれ、印象的である。」

貝の不思議さ。
渋澤龍彦の書斎に飾られた多くの<貝殻>を撮影した篠山紀信の<写真>を思い出した。
久保AB-ST元宏: 2007.01/05(Fri) 11:26 Edit
本文の続き2
そう言えば先日、我が社のプロパンガスの顧客がガスコンロの消し忘れで安全装置が作動して火事を免れたことがあった時に、そこの娘さんがお礼に豆腐を持ってきてくれたことがあった。
なんでも、娘さんは東川町に住んでいて、この町は水がきれいなので豆腐が美味しいのだそうだ。
ふむ。つまり、大雪山から直接流れてくるきれいな水の町、東川町。→水がきれいだから貝が育つ。→その貝の貝殻が浄水器の木炭のようにフィルム現像液の毒を浄化する。
うむ。このコジツケは私にしては、なかなか説得力があるじゃん!
私の住む沼田町も水がきれいなのでタニシが育ち、それをエサにする蛍が育っているとゆー自然の循環があるのだし。

日本経済新聞の書評欄を頭の中で反芻していると、『シェル・コレクター』の書評の下で、高橋たか子の新作小説『きれいな人』(講談社)を文芸評論家の川村湊が書評しているのを思い出した。
こんな具合だ。

「「きれい」とは「美しい」ということでもあるし、「清潔」という意味でもある。「きれいな人」は、普通は美人ということだ。しかし、「きれいさっぱり」とか「きれいにする」というのは、すべてをなくしてしまう、片付けてしまうという意味も持つ。「きれいな人」とは、人間的な愛憎や欲望、世間的な価値観を、きれいさっぱりと自らの中からなくした人という意味もあるのだろうか。」

そして、この小説の核心は、”「記憶」の浄化”であると書評は結ぶ。
つまり、「歴史の事実を許したり、忘れたりするのではなく、むしろ記憶し、語り続けることによって痛みや傷が癒されるのを待つこと」だそーだ。

となれば、今日準備されている私の20年ぶりの「再会」は、”「記憶」の浄化”の力を持った「きれいな」川に棲む「貝」の町、東川町であるとゆーコトは偶然以上の意味を持ったりして。

それにしても、高橋たか子。私より一回り上の世代には新刊作家として紙面で「再会」するのはある種の感慨もあるであろう。かの『非の器』や『わが解体』の高橋和巳の未亡人にして伝説の美人作家なもんだろーし。
中年の特権とは、こーゆー「再会」も味わえるとゆーコトなんだろーな、やっぱし。

たとえば、そーゆー「再会」を味わえる世代である1949年生まれの現代詩作家の荒川洋治が同じ今日の日本経済新聞に「軽井沢」と題したエッセイを書いていた。
この中にニューヨーク在住のユダヤ人作家マラマッドの短編「湖上の貴婦人」を読み返えしたことも書かれていた。私も高校生の時に読んだので、懐かしく、今朝、シャワーをあがってからバスタオルのみを着て、高校生の時には無かったたるんだ腹の肉をつまみつつ、再読してみた(笑)。久々に手にした新潮文庫の『マラマッド短編集』は20年前に女友達に貸して返ってきた時に付いた汚れで傷んだままで、これから「再会」する20年前の男友達とのコソバユイ連想を感じた。つまり&なんだか、20年前の私と女友達と、今の私と20年前の男友達の4人で、巨大な時間テーブルをはさんで、新潮文庫の『マラマッド短編集』をボールにダブルスのテーブル・テニスをしているよーな。
荒川洋治は小説からの引用に続けて下記のようなコメントを書いている。

「感動のねっこには、その人の「境遇」というものがあるのだ。好きになったり感動したりするたびに、人は「境遇」をさらすのだ。」

なかなかの箴言である。
私は荒川洋治の外見(←ごめんね。)と、軽い言動に軽視しがちだったが、やはりここにきて良い文章を見かけるようになった。……って、私が気が付くのが遅かっただけか(笑)。


そーこーしているとミーのカーは旭川市内に入った。
「再会」する予定の和田くんの乗った飛行機ANA4733の到着時間は午後3時20分なので、まだ2時だから、と、神田美術館に行ってみる。
旭川の入り口の高台にある神田美術館は、いつ来ても「冬はスタッドレス・タイヤで、だいじょーぶ?」っー感じの急な坂道にある。
なんだか、ここに来る日は雨の日が多い。車から降りると、エスカルゴに使えそうな巨大なカタツムリが濡れた草の中で蠢いているのが視角に同時に3匹入る。
美術館の玄関に「御用の方は左のチャイムを押してください。 神田」とゆー張り紙。玄関にはカギがかかっていた。
チャイムを鳴らすと、やや暫くして「はい。どなた?」とゆー、ややかすれた男性の声。あ、神田一明さんだ。
「美術館、見に来たんですケド。」「ちょっと待っていて下さい。」
ちょっと以上の時間、雨の中、待っていると美術館の裏側にあるご自宅から傘をさした神田一明画伯が山道を滑らないように足元を見ながらやって来た。
「ちょっと待っていて下さい。」と、さっきと同じセリフを言って神田画伯はカギをカギ穴に差し込む。
あはは。神田さん、私に気がついていないな。サングラスを外さないで私は礼を言った。
神田美術館には2年ぶりだ。まぁ、「再会」とゆーよりは不思議な縁の「確認」みたいな感じかも知れない。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/3973/art-kanda-kazuaki.htm

室内の絵は2001年以降の新作を中心に展示してある。50年以上の画歴がある画家の現在だ。
高い天井に広いワンルームの個人美術館はフローリングでもあるので、絵が無ければ小さな体育館といった雰囲気かもしれない。
しかし、そこに2m角中心の油絵が上下2段にわたって、四方の壁をグルリと囲めば格調高い神田ワールド突入である。
神田一明さんの絵は室内画が多い。それも、おそらくはこの美術館と背中あわせに建っているご自宅にあるアトリエが舞台である。
私がそのアトリエに初めてアポ無しで訪問させてもらったのが2000年4月5日。そのアトリエで見た光景が神田さんの脳味噌を通過して今、目の前で「再会」。
基本的には具象画なのだが、よく見ると色の塗り方が室内やオブジェを描いた線画を越境して、ストロークの快楽を優先させて全体を作り上げているのが分かる。
その色塗り時のストロークがあまりにも自由過ぎるので、神田さんの興味は書かれた室内やオブジェにあるのではなくて、それらを利用したさらに遠いところにあるのであろう。
残念ながら去年はここに来れなかったので、2年ぶりに見る圧倒的なストロークのパワーを久し振りに楽しんだ。色や形態は画集や写真では分かるが画家のポエジーが生々しく記録されているストロークだけは本物を目の前にしなければ気が付くことも打ちのめされることもできやしない。

「ここに、お名前をお書きください。」と、神田さんが来館者の記名帳を差し出す。
なんだか、「こいつ誰だっけ?」的な疑問を持った神田さんが考え付いた私の正体を知る方法として差し出したかのような記名帳が優しい滑稽さで間の抜けた口を開けた老人のようにだらしなくページが開かれていた。
別に意地悪をしたワケではないが私は記名帳にスグに名前を書かずに「展示してある絵が大幅に変わりましたね。」と応える。
そう振り返った時に神田さんの立つ入り口のある壁には1960年代前半の見慣れた彼の初期の作品群が飾られていた。
夭折の画家である彼の弟、神田日勝の作品と比べられることもある農村生活の絵である。
第二次世界大戦を挟んで東京からやって来た開拓農民の生活を描く絵から、振り返ると21世紀の不安な都会生活者の部屋の絵。
この半世紀を貫く絵の作者が、今、私の目の前で「この男はいったい誰だ?」と考え込んでいる。
よく見ると最近の絵ばかりに見える壁も、1970年代の青一色で塗られた超クールな室内画や、1980年代の中間色のパッチワークのような都会の日常生活のような絵もある。
最近、時系列に編集された『武満徹全集』(小学館)を読み進めている私には、時系列を無視した絵が上下2段でランダムに並んでいることに心地よいショックを味わった。
中にはかなり初期の1960年頃の、ほとんど抽象画に一歩手前という感じの圧塗りの静物画まである。このランダムが生む快楽は何だ?
「よく見ますと、けっこう色んな時代の絵がバラバラに並んでいますねぇ。」
「そうです。絵を飾る時に色合いを考えて並べてゆくと、いつの間にか絵を描いた時期を無視して、バラバラの時代に作品を並べていることになるのです。」
そんな神田さんの言葉を聞いてから再び壁を俯瞰すると、まるで壁全体が巨大な一つの絵になっているような雰囲気に気が付き言葉を失った。
「ハーモニー」なんて言葉で説明してしまうと陳腐だが、何気なく並んでいる絵に作家の緻密な計算があったのだ。
作家にとって「作品」は確実に記録でもあるワケで、広い意味での記録は「再会」と直線で結びついている。
写真を貼った思い出のアルバムを解体して、写真をランダムに並べてみる。並べ方の法則はただ一つ「色合いを考えて」。
それぞれの一枚づつの絵が既に強力なパワーを放っているのに、それらがメタ「再会」状態で巨大な曼荼羅を作っている。
しかも四方の壁からその渦が、見ている私の立つ中心に向かってくると同時に屋外へ放射されている。
そして、ここが「神田一明美術館」ではなくて「神田美術館」であるが故の、もう一人の神田、奥様の神田比呂子さんの彫刻作品がその渦の中にアクセントを付けている。

札幌の「ギャラリーどらーる」で開かれた2001年6月1日の神田一明さんのオープニング・パーティに招待されていた私はニューヨーク旅行中で参加できなかった。
その時のDMに使われた作品も展示してあった。作者らしき男の絶望をイメージする表情が大きくアップになっている後ろに荒涼とした一本道が延びてゆく絵。
久保AB-ST元宏: 2007.01/05(Fri) 11:27 Edit
本文の続き3
先月、「ギャラリーどらーる」のオーナー夫妻が神田美術館に行った時の写真をオーナーからEメールで沢山見せてもらい、以前とは違ったカラフルな展示を見て次々と新作を描いている神田さんの創作意欲に感心したが、これはむしろ、青の時代や赤、黄色、紫、緑、それぞれの時代を経たからこそのカラフルな展示でもあったわけだ。

そして思い出すのは「ギャラリーどらーる」の先月の個展『夏山 亞貴王 遺作展』を一人で見に行った神田さんが、その油彩画の色の美しさに感動して数日後に奥さんを連れて旭川から札幌までわざわざ日帰りで出向いたということ。私はソレを、「ギャラリーどらーる」の掲示板で読んだ。偶然にギャラリー会場を見に行ったオーナーが神田さん夫婦を発見して短い間隔に二度の来訪の理由を尋ねた結果を書き込んでいたものだ。
「遺作展」は「再会」できない作者との「再会」?
まぁ、それにしても自分の美術館の展示にあたって「色合いを考えて」配置をする神田さんにとっては、先月の『夏山 亞貴王 遺作展』のピンクや水色を使っていても浮薄にならないカラフルな空間は本当に気持ちの良い「再会」であったと思う。

おお。あと30分で和田くんの飛行機が旭川空港に到着する!
「ここから飛行場まで何分ですか?」
「30分ほどですね。」
ゲッ!やば。和田くんとは20年ぶりだ。時間通りにいって到着口で待っていなけりゃ、分からないカモ(笑)。
その時、私は和田くんの携帯電話番号を書いた紙を忘れてきたことに気が付いた!うー。私は携帯電話を持っていない(笑)し、こりゃ、急げ!
「どちらからいらっしゃったんですか?」
あ、そーそー。私はサングラスをとって、「私、沼田町の久保です。お久し振りです。」とペコリ。
神田さんは「あっ!」と言って思い出してくれたようで、「どうも、最近、歳をとってスグに思い出せなくてー。」と恐縮されて、こっちこそ恐縮。
「いやあー、私もサングラスをかけていましたし、それに私は来る度に髪型が違いますしー。伸びたり、ちじんだり(笑)。だいたいにして私ごときを記憶しておく必要はありませんよ(笑)。」
「いやもう、歳をとるとスグに思い出せなくてー。」と、そればっかり(笑)。
「神田さんは昭和9年生まれですよねぇ。」と、私は記憶力がいいわけじゃあなくって、ただ私の父と同じ年に生まれたとゆーコトだけで覚えているだけ。
さて時間が無い。
ところが、ここからが長く、神田さんは一気に話し出し、絵を見たより長い時間の立ち話が始まった。
「神田さん、今年の美術応募展『第58回全道展』、札幌で見てきましたよ。」
「ああ、今年の6月のね。」
「あの「母と子」という作品、モデルは娘さんですか?」
「あはは。あれ、実は家内と孫でして、本当は「老婆と孫」なんですよ(笑)。妻の顔を若くしてみたんです。」
「ははは。でも、今までの不安や焦燥感を表現してきた作品と同じ室内を舞台に描かれているのに、今回の「母と子」は一気に和みムードですねぇ。」
「まぁ、色合いは同じものも過去に描いてきたのですがね。」
最初から自己紹介をしなかった私の自業自得だが、神田さんの話は止まらず、和田さんの乗った飛行機は北海道上空をジェットの力で北進していた。


神田さんの話の区切りのいいところを見つけて、「では、また来ます。」と再びサングラスをした私は急いで雨の国道237号線を旭川空港に向かった。


いつもは単身赴任サラリーマン参勤交代の関所である旭川空港も、さすがに夏休みとあって家族連れで賑わっている。
あまりの混雑に「うわっ。もう和田さんの飛行機は着いたのか!?」と思ったが、恒例の(?)定刻遅れで、ラッキー。

待っている間にインフォメーションで無料地図を各種ゲット。
小学館の副編集長である和田くんの今回の出張の目的は旭川空港から5km東にある東川町で開催中の『東川町フォトフェスタ2003』のためにニューヨークから来日中のカメラマン、比嘉良治の取材のためだった。米屋の私は東川町にはトラックに乗って農家の庭先まで玄米を仕入れに行くことはあっても、東京のエディターを空港から連れてゆくのは初めてなので、そのルートを知ろうと無料地図をあさっていたわけだ。
無料地図コーナーはたいして大きなスペースではないのだが、旭川市を中心に位置する上川管内の各市町村のパンフレットが広告代理店の力を借りて無言の「営業」をしていた。
こーゆートコでがんばって見えるのがやはり、さすがの富良野。
それでも、私の友人が単身で本州から移住してきてエミュー牧場を経営している下川町や、行政マンなのにやたらに行動派の文科系オヤジの漢さんの住む朝日町のパンフレットなども置いてあり、それぞれに二人の活動も紹介されており、こーゆー間接的な思わぬ「再会」は嬉しいもの。

立ちながらパンフを読んでいると、どうやら遅れていた飛行機が到着したらしいランプが掲示板に点灯した。
さて。
和田くんって、どんな顔だったっけ?
20年前の人懐っこい笑顔は印象的であるが、笑顔は表情であり、形状ではないので、もし彼が笑わずにゲートから出てきたら私は彼が分からないかもしれない。
今回の「再会」にあたって、細かく連日のEメール交換をした中に和田くんは「私はもう中年のヒゲ・オヤジですが。」と書いて来ていたので、それだけが頼りだ。
それにしても、飛行機を降りてきた連中に大量のヒゲ・オヤジが混ざっていたらどうしよう?
幸か不幸か、出口から出てくるの大半は夏休みを利用して仕事の夫を残して帰省してきた「母と子」(By.神田一明?)という組み合わせのパターンが多い。
一人だけ、大きなリュックを背負ったバッグ・パッカーのヒゲ・オヤジが出てきたが、どー見ても都会の編集者っぽくないので眼を合わせないようにしていたら、そいつが人ごみを掻き分けて大きな弧を描いて私の方へやってきた。
「どうも、どうも。いや~、久保さん、変わらないねぇ、相変わらず細いねぇ。」と、右手を差し出す。
その右手を握りながら私は今日の午前中に新潮文庫『マラマッド短編集』を読みながら、自分のたるんだ腹の肉をつまんでいたことを思い出し、「いやぁ~、脱いだらスゴイけどさ。」と、再会の第一声。
久保AB-ST元宏: 2007.01/05(Fri) 11:28 Edit
本文の続き4
雨は何時の間にか小雨になっていて、用意した和田くん用の傘は使わなくても済むようだ。
駐車場まで肩を並べながら、「再会」の事実が事実であることを確認するかのような会話。
「こうして久保さんと再会できるのも、インターネットのおかげだね。」
「あはは。本間さんからEメールが来た時は驚いたよ~。新手の勧誘商売かと思ったよ(笑)。ところで、本間さんのお父さん亡くなったんだよね、先月。そんなことも今回始まったメーリング・リストのおかげで知ったよ。」
「ああ。葬式にはぼくも行ったよ。」
「メーリング・リストを読むと通夜には具島さんたちが行ったみたいだねぇ。」
「マス塾のメーリング・リストが始まってから、久保さんの存在感、すごいねぇ。」
「は?」
「ぼくがマス塾をインターネットで検索している時に偶然に久保さんのホーム・ページを見つけた時は興奮したよ。」
「は。」
あ、”マス塾”、早稲田マスコミ塾。私と和田くんはここの一期生として1983年に知り合ったんだった。”マス塾”なんて省略名称を使いこなせない田舎モノの私にはピンとこなかったよ。
「ほら、北海道新聞の斎藤のことを書いていただろう?」
「あー。」
「うんうん。フランス料理人の三国清三の記事を斎藤が書いた記事を久保さんがマス塾の同級生だと書いていたホーム・ページを偶然に検索で見つけたんだよ。」
うほっ。ああー。私のホーム・ページ『共犯新聞』の中の「共犯☆日記」に書いたやつだ。
世界的な料理人の三国清三は私の住む沼田町から西に1時間ほど車で行けば着く漁村の増毛町の出身だ。中卒で集団就職組の彼が30歳前後には既に業界の有名人になっていたのは、東京から北海道に戻って食品卸会社に就職した私にとっては可能性の見本みたいな人であった。
その世界のミクニが、ついに2003年に故郷の北海道に念願のレストランを開店するという連載記事が北海道新聞の夕刊に載ったのは、私がニューヨーク旅行をした2001年6月と、ニューヨークに白い煙が上がった2001年9月の間のことであった。
カラー写真入りで10回も続いた連載記事を毎日切り抜いているウチに私は気がついたのだ。
その署名記事の記者は”東京社会部 斉藤佳典”だった。
私の切抜きの目的は三国清三から斉藤佳典に変わった。
約20年前に早稲田マスコミ塾で一緒に勉強をした斉藤さんの記事を毎日読めるのは不思議な感慨があった。
「あー、オレも驚いたよ。斉藤さんが北海道新聞の社会部の記者になったのは知っていたけどね。それを『共犯新聞』に書いたんだったっけ。」
「うん。斉藤も最初は北海道の地方の記者だったみたいだけど。たしか倶知安か、どっか。」
「あはは。オレの住む沼田町の支局は20年前に無くなったもんね。」・・・・・・20年前だ。
「それから東京に転勤になってたんだよ。」
「そーそー。斉藤さんはあれからマスコミ浪人して苦労して北海道新聞に就職したんだよな。」私のオトボケな”挫折”とは大違いである。
「あ、知っていたんだ?」
「そう。オレが北海道に戻って札幌でサラリーマンをやっている時に、一年後かな手紙をもらったよ。北海道新聞に就職したって。んで、東京から札幌に来たから、一緒に飲みに行って、ススキノの安い居酒屋を教えてくれッて書いてあったよ。」
「会ったんだ?」
「ははは。それが、当時はオレは超ニヒリズムの時期で誰にも会いたくなかったから(笑)。返事も書かなかったよ。」
と、話しながら想うのは、「安い居酒屋を教えてくれ」と書いていた男が世界のミクニのグルメ記事を連載するまでの時間の流れだ。
「斉藤さんは今でも東京にいるの?」
「いや。丁度、伊藤さんと入れ替わって札幌に戻ったんだよ。」
「伊藤さん!」
固有名詞は一気に20年前の匂いや風景を思い出させる。
「伊藤さんとは羽仁五郎の追悼集会に一緒に行ったなぁ。泊まりに行ったこともあったよ、伊藤さんの自宅に。なんだか階段の下みたいな書斎があったなぁ(笑)。」
「へぇ~、久保さんもけっこう交流していたんだねぇ。」
「まぁ、私の場合は大学3年生で就職に関係なかったから、自由に交流できたよ。ほら、リクルート社のハンサム社員・・・・・・、なんて言ったっけ?」
「佐々木さんだっけ?」
「忘れた(笑)。あの人のアパートに泊まったりとかね。田中康夫と同じ大学だったから、その話とかしたなぁ。」
「へぇー。意外なつながりだねぇ。」
「ミチヨさんなんか、今、教育活動を色々やっているから和田さんの雑誌の参考になるんじゃあない?」
「あははは。学校のあるところに取材源あり、だからね。」

小雨の中を早歩きと早口でミーのカーに辿り着いた。
「これだよ、オレの車。」
「さすが、ファミリー・ワゴンじゃナイんだね。」
ファミリー・ワゴンが理由も無く嫌いな私のセンスを見抜くように言われ、ちょいと驚く。ただのトヨタのマークⅡなんだけどね。

「へー。マスコミ塾の同窓会って、前からやっていたの?」
「うん。久保さんは遠いから参加できなかっただろうし、音信不通だったからね(笑)。でも、ぼくらが幹事になってやっていたんだ。」
「あ、本間さんが同窓会を始めたのじゃあなくて、和田さんたちが始めたんだ?」
「まだ3年ぐらいだけどね。ほら、ぼくらも40歳を超えて中間管理職になってさ、時間と生活に余裕ができてきて、会う余裕もできてきたってコトさ。」
「ふ~ん。」

40歳で中間管理職!
まぁ、言われてみればその通りなんだけど、田舎の商工業者との付き合いの世界では、そーゆー都会の年齢価値基準を忘れてしまう。だって、田舎では50歳でも「青年」と呼ばれたりしているんだし。ああ、41歳の私は今年も祭りではしゃぐのだろーし。がくっ。

「どーせ、50歳になったら管理職だろ?編集の現場にいれるのはあと10年そこそこだしねぇ。」
そうか。あれほど情熱をかけて勉強したマスコミ、ジャーナリストの道も彼らにとっては後半の仕上げ(?)の時期に入ったのか?
それでも東川町に向かう車中で教えてもらった早稲田マスコミ塾一期生の活躍は素晴らしいよーで。
「ほら、マス塾の塾長だったっけ、評論家の大野明男がよく言ってたじゃない、”お前たちはジャーナリストになるのか?マスコミ労働者になるのか?”って。」
「和田さん、よく憶えているねぇ。そりゃそーか、あの塾での勉強の続きの人生だもんな。」
「まぁ、でもさ、時々自問しちゃうよ。オレは”ジャーナリストなのか?マスコミ労働者なのか?”って。」

こうして20年ぶりに「再会」してみると私のいい加減な人生が和田くんから放たれる間接光で照らし出されるようで、鈍い反省心がゆっくりと腰を上げかけるが、今更、反省も後悔もしない私である(笑)。
久保AB-ST元宏: 2007.01/05(Fri) 11:29 Edit
本文の続き5
早稲田マスコミ塾は今から考えると気恥ずかしい程の高貴な理想(?)を基に創設されたマスコミ就職用の塾であった。
高田馬場駅すぐそばにある大手予備校の校舎を利用して、その予備校が経営していた夜間塾で、企画運営はリクルート社であった。
で、まかされていた塾長(?)が戦後最初の東大自治会委員長であった大野明男であった。彼の最も売れた本が『全学連』であるとゆーコトからこの塾の性格の一面もうかがえるとゆーもんだ。
それにしても、塾生になるために作文などの試験や面接があったわけで、その狭き門(←ホントか?笑)を通過できた20名ほどのマスコミ就職志願者はかなりレベルが高かった。それはその後の彼らの就職先や、現在の活躍で分かるというものだ。

「マスコミ労働者かどーかは分からないけどさ、今から考えてみてもレベルの高い連中がよくもまぁ集まったよねぇ。」
「でも、いまだに自分の単行本を出しているのは井原美紀だけだろ?」
「あー、そー言えば大野明男が”お前たちは来年の春に朝日新聞社に就職するのが目的か?それとも20年後に朝日新聞から原稿を依頼されるようになるのが目的か?”と言っていたね(笑)。」
「そーゆー意味では、マス塾のOBは新聞社や雑誌社、テレビ局、広告代理店などなどに就職して、今じゃあそれぞれが地位を持っているので、けっこーなネットワークだよ。」
「ふーん。私だけが、米屋だけどね(笑)。」・・・・・・”升(ます)コメ”労働者とゆーギャグを言おうとしたが、冷夏に拍車をかけそうなので止めた。
「あはは。久保さんのホーム・ページを読むと、マス塾OBの中で久保さんが一番、文章を沢山書いているみたいだよ(笑)。」
「がくっ。んなコトはないだろーけどさ、あの早稲田や慶応などの大学4年生ばかりの就職直前の緊張した中に、私だけが5流大学の3年生で、どー見ても明らかに”ひやかし”塾生だったよねぇ。よく考えると真剣にマスコミ就職をしようと時間に追われていた人たちに対して失礼だったよね、私の存在自体が。」

実際にそれはそーで、当時、「君はなぜ早稲田マスコミ塾にきたか?」という問いに「あきらめたいから。」と答えて相手を当惑させたことがあった。
つまり、最初から全てのことに自信の無い私は、マスコミの就職試験を受験したところで新聞社やテレビ局に合格できるワケがないと思っていた。
だいたい、本当にそーゆー大手マスコミ企業に就職したいのであれば、今ごろノコノコと早稲田マスコミ塾に通わずに、高校生の時からしっかりとお勉強をして早稲田大学などに入ればよかったのである(笑)。
それでも高校新聞を作っていた経験から、未練がましくささやかな可能性を捨てられなかったのも事実で、まぁ、それであればマスコミ就職者の中に身を置いてみて、いかに私自身がマスコミ就職に向いていないかを痛感して、潔く「あきらめたいから。」であった。

これは当時やっていたロック・バンドにしても、後に就職して片鱗に触れる食文化研究についても同様である。
今月、死者の魂が帰ってくるお盆のある8月にに、マスコミの夢の和田くんとの「再会」、中旬にはかつてのバンド仲間との「再会」、下旬には食文化研究家の田中千博さんとの「再会」が私には用意されている。これらの「再会」こそが、やはり中年の特権なんだねぇ~。
死にきれない「夢」が幽霊のように帰ってくるんだねぇ~。ゾーッ。
若者の特権は「挫折」であり、中年の特権は浄化された挫折との「再会」なのか・も。


まもなく東川町に到着。小さな町の通りには『東川町フォトフェスタ2003』とか有名になった高校生向けのイヴェント『写真甲子園』のノボリがうるさいぐらいに並べられている。
イヴェントをするならノボリ、とゆー、まるで売れない演歌歌手のキャンペーンみたいな発想は印刷業者の営業担当としての広告代理店の得意技である。

7月29日(火)から8月1日(金)まで開かれていた『写真甲子園』も終わったので、今日はプロ・カメラマン向けのイヴェントである。
それにしても、『写真甲子園』の審査委員は、立木義浩(写真家・東京都)、大石芳野(フォトジャーナリスト・東京都)、竹田津実(写真家・小清水町)、松原国臣(フォトジャーナリスト・札幌市)、川名廣義(ギャラリー・ディレクター・東京都)とゆー本格派なのだから、あなどれない。


和田くんと会場に入るとエントランスに並べられた女性のポートレイト写真の前で撮影されている着物を着た小柄な老婆がいた。
あ、写真家の吉田ルイ子さんだ。
日替わりで有名なジャーナリストが講師として登壇するのが早稲田マスコミ塾の”売り”であったワケで、私はマスコミ就職よりも彼らの話を生で聞くことができるとゆー理由で通ったよーなもんだった。やっぱり、不純だ(笑)。
で、そんな講師に混じって吉田ルイ子さんもいた。
だから、ある意味、今回の「再会」は私と和田くんと吉田ルイ子さんの3人の「再会」でもある(笑)。
おそらく地元の日曜カメラマンらしき人の要請で写真を撮られている吉田ルイ子さんだが、その慣れた立ちポーズがスター写真家の微妙なオーラを放っていた。
それをボケッと見ていたら和田くんも気がついたらしく、「あ、吉田ルイ子だね、ねっ。」と目を輝かす。マスコミの世界の中心にいて連日、有名人と会っていてもこーゆーミーハー精神が衰えないのもマスコミ人として長年生活する才能なんだろーなぁ。

和田くんが私に気を使って色んな人を紹介してくれる。あーヤベェ。名刺を忘れたぁ~。
せっかく和田くんが「こちら、沼田町の久保さんです。」と紹介してくれても、「はぁ、沼田で米屋をやってる久保です。」と名刺抜きで自己紹介しても、話は広がるはずはなく(笑)、当然、相手も私に名刺をくれるわきゃあない(笑)。和田くん、ごめんね。
「いいよ、いいよ。あとで、彼らのEメール・アドレスを教えるから。交流しな。」と言ってくれる優しさと期待に応えられない自分がマヌケである(笑)。

次々とソツなく挨拶と情報入手をこなす和田くんから離れて会場内に展示されている写真をチラチラ見る。昨日決まった『写真甲子園』の高校生の作品だ。
ふ~ん。と言った感じで特に印象には残らない。
写真よりも会場の雰囲気のパワーが大きく感じてしまって、落ち着いて写真に神経が集中しないのかもしれない。
会場はけっして大きな建物ではなく、むしろ行われているイヴェントの規模や招待されている写真家のネーム・バリューからいくと小さすぎるぐらいだ。
会場内を歩いている人、全員がプロのカメラマンに見えてしまう。STAFFバッジをしている人以外がVIPに見える。純粋な観客はどこだ?・・・・・私だけかよ(笑)?
そんな感じで、会場を歩いている人全員の作品を唯一の観客の私が全て受け止めなければならないような勘違いの義務感に圧迫されそうになった(笑)。

「久保さん、トーク・イヴェントが始まるから聞いていこうよ。」
と、和田くんに誘われて迷路のような会場をにゅるりと進むと、うなぎの寝床(笑)のような写真パネルに挟まれた廊下のような通路のようなところに出た。
その廊下のような長い空間にゴージャスなイスが10脚ほどならべられ、その前のフローリングに観客がアグラをかいて座る。
ゾロゾロ、トークをする本当の(笑)VIPが出てきてゴージャスなイスに座る。あ、友部正人だ。それぐらいである、私が分かるのは。
久保AB-ST元宏: 2007.01/05(Fri) 11:29 Edit
本文の続き6
数ヶ月に渡ってロングランで行われる『東川町フォト・フェスタ』だが、後で調べると私は偶然に最も重要な時間帯に参加できたようだ。
つまり、百人を超えるゲストが出入りするこの複合イヴェントのこの時間帯のゲストは下記の人たちだ。


■フォトフェスタ・メイン会期 <8/2(土)~5(火)>
 ▼東川賞受賞者-----------------[8/2~3]
   ガイ・ティリム 海外作家賞(南アフリカ共和国)
   齋藤亮一  国内作家賞(東京都:札幌市生まれ)
   糸崎公朗  新人作家賞(東京都)----[8/2~5]
   吉田ルイ子 特別賞(東京都)
 ▼東川賞審査会委員
   佐藤時啓  写真家(埼玉県)
   長野重一  写真家(東京都)
   平木 収  写真評論家(東京都)----[8/2~4]
   山岸享子  写真キュレーター(東京都)
 ▼特別ゲスト
   岡本敏子  作家・エッセイスト(東京都) ・・・・・・画家、岡本太郎の養女。
   金 升坤  写真評論家(韓国)-----[8/2~4]
   友部正人  シンガーソングライター(神奈川県)
   比嘉良治  写真家(ニューヨーク)--[8/2~5]


最後の比嘉良治氏が、今回の和田くんの取材対象の「先生」だ。
箱に穴を開けただけのカメラ、ピンホール・カメラを小学生に体験させる活動をしている方で、まさしく小学館の和田くんには魅力的な「先生」である。

後からゆっくりと資料を見ると分かることだが、この時点では私は何がなんだか分からないで和田くんから差し出されたザブトンを使って床にドカッと座っただけであった。
しかも会場が「うなぎの寝床」状なので、後から来た私たちはパネラーの真横に座ることになり、声だけを聞くこととなった(笑)。
まぁ、話者の顔は見れなかったが、目の前の壁に貼られた東川賞受賞者の齋藤亮一の作品をじっくり見ることができた。
1959年生まれの齋藤亮一は札幌生まれながら、スペインを拠点にした時期もあるということからも分かるように世界中を回って活動をしている写真家だ。活動した地域が、南米(1988年)、東ヨーロッパ(1990年)、アイルランド(1991年)、1992年(ロシア)などというだけあって今回の作品もかなりジャーナリスティックだ。
題は『Lost China』。
中国の都市の古い建築物のモノクロの写真。
札幌のギャラリー「エルエテ」でのオープニング・パーティで知り合った風間健介の作品を思い出す。炭鉱の廃墟をテーマに作品を発表している写真家だ。
それを和田くんに言うと、「廃墟ブームの人だね。」と即答。ふーん、有名なんだ、あいつ。
手元の資料をめくると、なんと去年の東川賞を風間健介が受賞している。え?今年、吉田ルイ子が受賞した賞である。どーも賞の位置付けが分からない。
さて。風間健介の作品は「廃墟」だが、齋藤亮一の作品はよく見ると人物がいる。それも生き生きとしている人物が多い。
つまり、廃墟になる直前の古き良き中国の建築物と人民(笑)の生活なのだろう。確かに古い建築物の向こうに大きな近代的ビルディングが見える作品もいくつかある。
中国の古い建築は郷愁を誘い、ある種の観光的興味をくすぐる。エドワード・サイードが「オリエンタリズム」として批判的に分析した視覚の植民地なのかもしれない。
今や世界の工場である中国の「成長」は人民の生活レベルの向上を準備し、古い因習と生活を変化させる。これが本当の「文化大革命」か?
記録として魅力的な写真だ。ただし、これは写真家の力なのだろうか?素材を超えた仕事を写真家はしているのだろうか?

そんなことを思ってボケッと目の前の写真を見ていたらティーチ・インが始まった。
主役は今年度の海外作家賞受賞作家のガイ・ティリムだ。彼は1962年生まれ。あ、私と同じ年の生まれだ。へぇ~。でも禿げ上がったオデコや深い皺からは年上に見えるぜ。
彼は南アフリカ共和国のケープタウンを活動の拠点にしているらしい。
司会の平木収(写真評論家)は、彼を選んだ理由を「本年の海外賞だが、本賞も回を重ねること20回にあと1回というところまで来て、既に世界の主要な地域を網羅してきた。だが唯一アフリカ大陸とその諸国からの選出は果たされていなかった。」から、あえてアフリカから選んだのだと言う。過剰に話す彼は「肌の色は問題ではないが、彼は見ての通り、白人である。」とまで言った。なんだか、アフリカ人かつ黒人が理想の受賞者であったかのような感じ。
まぁ、そんなワケで映画や文学の賞の感覚とはまったく違う選考が行われているようだ。

この受賞者ガイ・ティリムは西アフリカやアフガニスタンなどの貧困や戦争の渦中での撮影を続けている。
肩書きも「フォトグラファー」と呼ばれるよりは「フォト・ジャーナリスト」と呼ばれるのが自然なようだ。
だからと言うわけではないが、しゃべり過ぎの司会者はジャーナリズム論を語ろうとする。ティーチ・イン参加者への話題の振り方もジャーナリズム論である。
それがツマラナイ。
なぜ、写真を語らずにジャーナリズムを語るのか?
私の弛んだ脳味噌では先ほどの車中での和田くんの「まぁ、でもさ、時々自問しちゃうよ。オレは”ジャーナリストなのか?マスコミ労働者なのか?”って。」という言葉が思い出された。
司会者が陳腐なジャーナリズムの精神論を語るばかりであるのに対して議論を深めようとしたのか女性の評論家が「ガイさんの作品には詩聖があります。」と文学少女ぶった発言。
う~む。どうも違うなぁ。どれも、これも受賞者ガイ・ティリムに対してのみの特別な言葉ではなくて、フォト・ジャーナリズムの一般論を繰り返しているだけなのだ。
それにだいたいにして、「詩聖」という単語を持ち出してきて全てを語ったような気分になるのはいかがなものか(←鈴木宗男風・笑)?
強い単語に頼らずに、自分の文章で語れ!
私が聞きたいのは言い古された普遍的で抽象的な単語ではなくて、受賞者ガイ・ティリムのみを浮かび上がらせる新鮮で具体的な言葉なのだ。
「え~、それでは会場にいるガイさん以外の東川賞受賞者もイスに座って議論に参加してください。」と司会者が呼びかけると、観客に混じって床にペタリと座っていた男が立ち上がった。さっきから私が見ていた写真の作家の齋藤亮一と、座っている姿は単なるオタクにしか見えなかった(←ごめんね)糸崎公朗である。司会者は残る受賞者である吉田ルイ子も参加させたがっていたが、いつの間に彼女は会場から抜け出していた。きっと、今更ながらに陳腐な熱血ジャーナリスト論を聞かされることに彼女は苦痛を感じたのではないのかな?苦痛か、もしくは一種の恥ずかしさか?
繰り返すが、ジャーナリスト論が悪いわけだはない。陳腐なジャーナリスト論は、それだけでジャーナリズム精神の死である。ただ、それだけだ。
今も高田馬場あたりのマスコミ養成専門学校では、陳腐なジャーナリスト論が繰り返し「消費」されているのだろうか?

司会者が隣に座る友部正人に発言をさせた時には私も少しは期待したが、その流れではさすがの詩人も魂の抜けた言葉をニヤケて少し語るだけだった。
あ~あ。私は持ってきた彼の本にサインでもしてもらって、せめて彼がここにいた証拠にしようかなとも思った。
思えば私が札幌で初めて彼のコンサートを見たのはマスコミ塾の同期生の斉藤佳典さんから「北海道新聞に就職したので、東京から札幌に来たから、一緒に飲みに行って、ススキノの安い居酒屋を教えてくれ。」との手紙をもらった年であった。せまいライブ・ハウスでの彼のコンサートには古いLP『にんじん』からの曲もあり、当時の私には深く印象に残った。ライブ終了後にズカズカと楽屋に入っていくと、さらに狭い楽屋には歌い終えた直後の彼だけが汗だくで立ってギターを拭いていた。突然入ってきた男に、彼はライブ・ハウスのスタッフであると思ったどろうねぇ。で、私は持っていた友部正人とはまったく関係のない単行本を出して「サインしてください。」と言うと、通り魔に出くわしたかのように目をむいて言われるがままにサインをしてくれた。で、さらに私が「サインの横に詩を書いてください。」と言い、友部正人はまたまた言われるがままに少し考えてから詩を書いてくれた。で、私は右手を出して「ありがとうございます。」と強く握手をした。んだけど、ほとんどストーカー行為なんだけど、その時の私の目はストーカー以上に狂気で真剣だったハズ。
それからも何度も彼のライブを見ているが、今日は彼のサインの横に「鉄格子を三本」と書いてもらおう、と考えながら延々と続くステレオタイプの熱血ジャーナリズム論を聞き流していた。

救われた発言は、座っている姿は単なるヒョーロク玉にしか見えなかった(←ごめんね)糸崎公朗から発せられた。
「ガイさんの写真は戦争地域の写真ばかりで、確かにそれだけでインパクトがあるのですが、例えば、鉄棒に銃弾の跡があって、さらにその向こうの壁にも銃弾の跡がある。つまり、構図としても面白い。この穴を突き抜けた銃弾が、向こうの壁にもう一つの穴を開けたという遊戯的面白さってゆーか。」
この発言を膨らませる才能が残念ながら司会者は持ち合わせていなかったようだ。
写真ジャーナリズムが写真を使う理由の核心にこそ触れるべきである。

飽和状態になったゲスト発言にさすがの司会者も気がついたのか、「えー、じゃ、ここで会場から質問ありませんか?」、だってさ。

写真学生っぽい青年が熱血パワー溢れる表情で手をあげた。
「今回の受賞者は立体写真の糸崎公朗さん以外は、みんなモノクロ写真ですよね。まぁ、さらに報道写真てゆうか。えーと、ぼくも写真をやっているのですが、ぼくはカラーのみで撮影しているんです。そこでガイさんと斉藤さんに質問なんですが、今回の展示している写真をカラーで撮影したいとはお考えにならなかったのですか?特に現代のようにデジカメとかカラーのハードが発達して普及もしている時代ですし。」
なるほど。と、思ったら私の横で和田くんが「なるほど。」と声に出してうなずきながら言った。

この質問に対して、ガイさんと斉藤さん以上に答えていただいたのが審査委員でもある司会者であった。
「モノクロ写真には写真の原点があるのです。」
ぎゃふん。そーじゃナイだろーが、今議論すべきポイントは!
久保AB-ST元宏: 2007.01/05(Fri) 11:30 Edit
本文の続き7
この日、この司会者の発言の中で最も魅力的だったのは、次の発言だった。
「えー、この辺でもう時間がないので、特別ゲストの友部正人さんから特別に歌を歌ってもらおうと思います。みんな、今日は得したね!」
ほげ?
まったく期待していなかった私の横をフォーク・ギターを持った友部正人が歩いて出てきた。
和田くんは私に擦り寄り、「だれ?この人?有名なの?知ってる?」とささやいてきた(笑)。
「うん、うん。ほら。」と私は和田くんに持ってきていた友部正人のエッセイ集『耳をすます旅人』を手渡した。

友部正人は客席の位置も向きもデタラメな緊急ライブ会場になった「うなぎの寝床」で青い本を持って立った。
それは彼の詩集だった。
「暗くなった罰として
夜を牢屋に閉じ込めた
月が逃げださぬよう
鉄格子を三本 窓にはめた」
と、始まる彼の曲「銀の汽笛」の詩をポエトリー・リーディングした。
さっきのティーチインを逃げだした(?)吉田ルイ子も、あわてて戻ってきてうっとりした目で聞いている。両手でマミヤのカメラを持って撮影のチャンスすら狙っているようだ。

「さっき、ガイさんの写真の感想を聞かれて、上手に言えなかったのですが、ぼくが思ったのは、こういうことです。つまり、ぼくは今まで写真を見るたびに、そこに行ってみたいといつも思っていたのですが、ガイさんの写真を見たときだけは、そこには行きたくないと思ったのです。でも、ぼくは実は世界中で一番、アフリカの音楽が好きなんです。ユッス・ンドゥールとかサリフ・ケイタとか・・・・・・。そのリズムや熱が。」
と、少し立ち位置を変えて、「本当は3曲歌う予定だったのですが、もうバスが出発しちゃうんで1曲だけ歌います。」と歌いだした。
「君がニューヨークのアパートにいる時
ぼくは東京の賃貸住宅に住んでいる
君がフランス人のはっきりした物言いに怒る時
ぼくは日本人のあいまいなやり方にいらだつ」
と歌う彼のもう一つの代表作。会場が狭い理由もあって、マイクも使わずに生声で歌う。

「ブルース・ハープも使ってほしかったねぇ。」という和田くんの感想はボブ・ディランをリスペクトしている友部正人の本質を感じたからかも。
とにかく彼は「有名なシンガー・ソングライターの歌が聴けてよかった。」らしい。
「持ってきた本にサインしてもらいなよ。」と、和田くん。いや、もう歌が聴けたからサインをもらわなくても彼と同じ空間に居た証明ができたから、いいんだよ。とは和田くんにはキザったらしいから言わなかったが(笑)。


「せっかくだから写真を見ていこうよ。」と和田くんに誘われて、会場をゆっくり見て回る。
ティーチインの間中見ていた国内作家賞の齋藤亮一『Lost China』に続いて展示されているのが、海外作家賞のガイ・ティリム『Depature(出発)』だ。まったく作品を見ないままで長々と批評を聞いたという不思議な(?)体験をした直後なので、かなり貪欲な興味が自分の中で準備されていた。
確かに、凄い写真である。それは見る者の体温を下げるパワーを持っている。戦争に対して怒りの熱を高めることより、熱を冷ます方が難しい。
砂漠の砂がこちらにまで届きそうな生々しい写真群である。写真は現場でなければ作業ができないジャンルであることが再確認させられる。
つまり、写真というジャンルはモチーフが何であれ、宿命としてジャーナリスティックなジャンルなのだ。
宮沢りえのヌードも、コカコーラの広告写真も、普通の家族の夏休みの旅行写真ですら、すべての写真はジャーナリスティックなのだ。
そして、何を撮影するかという行為が、「政治」的なのだ。
写真家とはジャーナリズムと政治が交差する装置であると思う。そして、そのことに意識的になった時に、写真家は表現者として自立する。と、思う。
だから、全ての写真がジャーナリスティックなのだから、「この写真はジャーナリスティックだ。」と言うことはナンセンスだ。

次のコーナーには、新人作家賞の糸崎公朗の作品が並んでいる。この作品群はユニークだ。
まず、路上の町並みを多角的に撮影して、現像された印画を切り抜いて町並みの立体パノラマを作るのだ。
おお、そうか。さっきのティーチインで糸崎公朗が「ぼくは写真がヘタクソだから、工夫しているんです。」と語っていたのはこれか!
ガイが「ミスター糸崎公朗の作品には感心した。」と言っていたが、確かにこの見て面白い写真立体パノラマは世界性を持ってアピールできるであろう。
誰も居なくなった会場で私が一人で見ていると、糸崎公朗が写真学生と入ってきて、作品の解説を始めた。横で聞いていると、コミカルでさえある作品だが、実際の製作にはかなりの準備と体力と知性が求められるようだ。

最後には吉田ルイ子の『華麗な女たち』。瀬戸内寂聴やオノ・ヨーコなどの魅力的な女性のポートレイトである。
作者のリスペクトが感じられる。単なるポートレイト写真なのだが、数十人のポートレイトが集まると、ジャーナリスティックで政治的であるという写真の特殊性が浮かび上がって理解できる。

会場を出てみると、反対周りであったようで、そこが入り口だった。
さらに入り口の前には小学生の「写真日記」が展示されている。「絵日記」よりも気軽な「写真日記」は、カメラの普及率が200%の今こそ教育に使えるかもしれない。
小学館の和田くんにはアイディアの参考になったようだ。


帰り間際に和田くんから比嘉良治さんを紹介してもらった。吉田ルイ子の老婆振りからは想像できないが、彼女と同じ年齢だそうだ。かくしゃくとして若々しいし、品の良いユーモアも持ち合わせている。
和田くんの話ではニューヨークの芸術家や日本人のパーティ会場として比嘉良治さんの自宅やアトリエがよく使われるそうだ。
人望の厚さが、一瞬に理解できる雰囲気を持っている。
同時期にニューヨークに渡った荒川修平とは違うタイプなのだろう。
比嘉良治さんは工事用ドリルを持って歩いていた。ピンホール写真の「写真機」を手作りで作るため用である。

「さ、久保くん、旭川に行こう!」
何時の間にかお互いを「~さん」から「~くん」に変えて呼び合っている。次回会うときはもう呼び捨てだろう。
私としては、「早稲田」の「和田さん」と、「さん」で呼ぶと最近話題の「スーフリの和田サン」を連想してしまうので、早く「くん」と呼びたかったところだ(笑)。
久保AB-ST元宏: 2007.01/05(Fri) 11:31 Edit
本文の続き8
旭川のホテルにチェック・インした和田くんと、ユーカラという名の50年続く居酒屋に行く。
20年会わないと話題が多くて助かる(笑)。
日本各地、世界各地に空間を超え、20年間の時間が行きつ戻りつしながら話は続く。
「今度の同窓会はニューヨークに住んでいる日本経済新聞記者のモモエちゃんのとこでやんない?」とか。

和田くんと話をしていると、私の言う地名に沿って彼は周辺の土地事情を会話に入れてくる。
最初はそれを彼が偶然に私の知っている地名を知っているだけであると思っていた。しかし、その偶然が毎回であるために、私はこれは「和田くんが偶然に私の言う地名を知っている」のではなくて、「全ての地理を頭に入れている和田くんの知識に私が偶然に固有名詞を挙げてみただけである」ことに気が付いた。
「すごいねぇ、どこの地名でもすぐに反応するねぇ。」と感心すると、
「元々、社会科が好きだったからね。」とくる。サスガじゃ。
「ふーん。社会部の記者になりたかったの?」
「いや。映像ドキュメンタリーだよ。映像は今は大賀が中京テレビで日テレ『ズームイン!朝』のディレクターだよ。」
「そう言えば和田くんがモロッコに行ったときは、驚いたし、うらやましかったねぇ。あの1984年当時だったら、オレは一生、海外旅行なんてしないと思っていたから。」
「あれは卒業旅行だよ。それに、山城新吾が司会をしていた海外クイズ番組のシロウト・レポーターとして行ったのさ。」
「へぇ~。でもまだバブル前っーか、海外旅行は一般的になる前だったよなぁ。みんな作文に海外体験を書いたりして英語の話せられないオレはうらやましかったぞ(笑)!」
「でも、その後、久保くんもパレスチナに行ったじゃあない。しかも、その前にパレスチナの歌を作って・・・・・。」
結局この日は午前2時帰宅だった。


そして、この日の「再会」は、もう永遠に「再会」ができない本間さんと彼女の父との関係の、ポジとネガであったのだということも私は忘れない。
久保AB-ST元宏: 2007.01/05(Fri) 11:31 Edit
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