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展覧会情報(旧ギャラリーどらーる掲示板より)

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感想文 投稿者:久保AB-ST元宏 投稿日:2005/09/29(Thu) 14:44 No.3331   HomePage
 
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「黒い羽根の天使「回転ゴッコ」 (S100)

 個展『渡辺 貞之 展』
ギャラリーどらーる 2005年9月

~~ モノの変化 = コトの変化 ~~


たとえば、大きな空きダンボールがゴロリとあると、子供は喜ぶものだ。そして、子供の視線がダンボールを家にしてみたり、風呂にしてみたりする。
ダンボールが汽車になった時、「運転手は君だ、車掌はボクだ」と、なる。
 モノの変化が、関係の変化を生むのだ。
 これらの行為を、「子供の豊かな想像力」と解決する立場に私はいない。私はむしろ、「想像力」ではなく「誤読」に近い行為であると思う。
つまり、子供にとっては目の前に突然に現れた「大きな空きダンボール」は非日常的な存在であり、「家」や「風呂」や「汽車」、時には「宇宙船」や「シンデレラ城」のほうが日常的な存在なのである。そんな彼らが起こす誤読とは、暴力的に現れた非日常を、日常に戻そうとする運動なのだ。その運動を進めるときに、非日常と日常の間に摩擦(=無理)が発生する。それを調整するために、子供たちはモノの変化の運動に、関係(=役割り)の変化を導入することにより、彼らにとっての日常化を完成させるのだ。
 これら一連の行為を「ゴッコ」と呼ぶのならば、子供の遊びは、かなり高度な「意味の置き換え」作業を行っていることが分かる。
そして「意味の置き換え」は人生を豊かにしてくれることを、「ゴッコ」は教えてくれる。それを「可能性」と言い換えてもいいかもしれない。「希望」と言い換えると、言い過ぎか。

 そして、これらの「ゴッコ」と絵画的思考は、かなり近いものがあるのではないか、というのが今回の私のコジツケだ(笑)。

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 私が常々、不思議に思っていたのは、渡辺貞之のようにデッサン力も構図力もある画家が、なぜいつも同じ視線の位置から平面的に見た狭い空間のみを描き続 けているのだろうか、ということ。もちろん、彼が劇団にもコミットしているので、舞台のように描いているのだという説明にも説得力がある。それにしても、 だ。たとえば、藤井高志高橋伸のように幻想的な風景に人物を置いてみたり、矢元政行平向功一の ように思いっきり三次元を感じさせてくれる絵画的スケール感の溢れる構図に踏み出してみる渡辺の絵も見てみたいと、ふと安易にも感じてしまう。これだけの テクニックがあれば、たとえばエッシャーのアイディアがミケランジェロの世界に溶け込んだようなダイナミックな世界も演出できるであろう。
 しかし、それを彼が行わないのには彼の興味がそこにはないということなのだろう。
 極論を言えば、渡辺は「顔」にしか興味がない。

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 絵画を学ぶ過程で、人物デッサンは重要なのであろう。
絵画のジャンルにとっては意味は無いだろうが、高度な技術で描かれた人物が、抽象画に半歩踏み入れたり、幻想的な世界に置かれたりするカテゴリー(?)は間違いなくある。それは渡辺が所属する全道展の中での、ある部分の特徴でもある。多くのベテランもそうであり、若手の宮地明人や、初期の會田千夏もそうであろう。
それは、しっかりと描かれた人物が技術の証であり、抽象や幻想の取り入れ方が感性の証であるかのような、絵を見る者へのバランスの主張を私はいつも感じる。
その主張が空回りをすると、得意なデッサン対象をコラージュしただけのような作品に落ち着いてしまう場合もある。
絵描きの内部で、常に技術と感性がお互いを切磋琢磨しながら厳しい時間を生きながらえているのであろう。
もしくは、「技術の担保の上に、破綻を描ける権利がある」、と換言することもできるかもしれない。そういう意味では、渡辺が人物デッサンに過剰な興味を持ち続けていることはごく自然なことなのかもしれない。
しかし、彼が今回のギャラリーどらーる個展において人物デッサン画をあえて大量に展示したことには、明らかにそれ以上の意味がある。まるで、人物デッサンは油絵大作の素材準備にすぎないのではないと大きな声で主張しているかのような、まさに彼の宣言のような展示である。
彼にとって、人物デッサンを描くということは無限の想像力の泉に向かい合うことなのだ。

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「17歳」 (四つ切り)




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「淋しい木馬」 (S30)

 もう少し正確に言えば、彼が取り組み続けているのは「人物デッサン」ではなくて、「顔デッサン」である。
本個展開催のわずか半月前、世間が休暇を楽しむお盆の真っ最中、8月15日に、渡辺が主催する絵画教室「ぴいぷる」の十人前後の成人生徒と共に、もくもく と人物デッサンをしている姿に私は偶然、立ち会った。その「マラソン・デッサン」と題された真夏の長時間耐久デッサン会は、モデルの前に座り込んだ渡辺を 囲むように馬蹄形に広がった修行僧の一群のようにも見えた。今回展示された「17歳」(四つ切り)は、その時の作品だ。
またしても、渡辺は人物の体全体が見せるポーズの面白さを記録することへの興味は最初から持たずに、モデルの男性の「顔」を切り取ろうとしていた。
渡辺にとって、「人物」とは「顔」なのであろう。そして、「顔」とは「表情」なのだ。
では、体のポーズは「表情」を持たないのか?さらには、風景は、海は、羊蹄山は、薔薇は、「表情」を持たないのか?
渡辺にとっての「表情」とは、社会的な「表情」と呼ぶべきものであると、私は思う。
たとえば、同じ人物であっても、父の顔をしていた男性が、夫の顔をしている場合がある。単純なたとえで恐縮だが、これが私が言うところの”社会的な「表情」”である。
もし、渡辺の前に”社会的な海”や、”社会的な羊蹄山”が現れたら、彼は迷うことなく風景画家にもなるだろう。
そういう意味では、「淋しい木馬」(S30)は、”社会的な木馬”なのである。

 では、”社会的”とは何だろう。それは、”役割り”の別名である。 我われは、かけがいのない個人であると同時に、現実という世界に接するために”役割り”を担う。個人と世界の間には、摩擦(=無理)が発生する。それを調整するために、役割りを導入するのだ。  渡辺の絵が擬古的な趣味を展開しつつも、我われの前に現代を切り取ってさらけ出していることを隠せないのには、”役割り”がゆらいでいる時代である現代を描ききっているからであろう。 もしかしたら、渡辺が風景や人体ポーズよりも、ずばり顔の表情に興味を集中させるのは、役割りのゆらぎと偶然性の頻度の問題なのかもしれない。顔は、表情の坩堝であるのだから。 私たちが、彼の作品を観て「笑顔さえ怖く思える」時、役割りのゆらぎと偶然性の頻度が演出する坩堝に追い込まれているのだ。 ひとりの顔の表情の中に、幼と老、聖と俗、正と悪、笑いと悲しみなどが同居している。そこから浮かび上がってくる大きな印象は、メランコリック、臆病、自尊心、堆積した空虚と絶望。 しかし、渡辺はその表情の現代性がペシミスティックに傾きかける誘惑に対して、子供に頼ることによって見事な逃げ道を用意している。 大人の想像力を超えた子供の表情が持つ複雑性は、子供が子供であるがゆえにこそ、人生の豊かさ、可能性、希望を私たちに感じさせてくれるのだ。 人生の入り口ではあっても、そこは現実の世界であり、そこで準備されている”役割り”という名の形式に犯され、裏切られないために、自らの顔に異端の”役割り”の表情を育てる工夫を始めた生物を、子供と呼ぶのだ。  もちろん、子供を描きさえすればそれが可能なわけではない。そこに、渡辺の子供への踏み込みの深さがある。 その踏み込みの深さを「感性」と呼び、それを記録する手段を「技術」と呼ぶのだ。

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「秋の寓話」(F8)

 見たことも無いような恐ろしくも美しい青に溶け込む子供を描いた「秋の寓話」(F8)などで見られる子供がかぶる小さな三角帽子は、我われにテント小屋の誘惑と、鬼への畏怖を同時に投げつける。 このような多義性が、”役割り”を媒介に絵とつながろうとする見るものを不安に立たさせる。しかし、この不安はなんと魅力的な創造のカオスであることか!彼の絵の持つカーニバル趣味とは、まさにそのことでもある。 多義性がやがて有機的に画面上のモチーフを結びつけ、大きなイメージに昇華してゆく時、「得意のデッサン対象をコラージュしただけのような作品」との差は歴然となる。

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「黒い羽根の天使「祭りの後1」
(S100)
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写真中央が、渡辺貞之画伯

  「黒い羽根の天使「祭りの後1」」(S100)では、リアルな顔の少年の体が人形であったり、人間であっても体の一部が描き終えられていない未完成の画業のままであったり、しまいには絵の全体像とはまったく関係なくマーカーで落書きのように無意味な線が引かれていたりする。
この素晴らしい絵こそ、「ゴッコ」と絵画的思考の同根を暗示している。
絵画が抽象画に半歩踏み入れたり、幻想的な世界を演出しようとする時、既存の手法や小物を導入するのではなく、まずは意味の置き換え(=「ゴッコ」)を行わないのであれば、それはタイクツな既視感にしか過ぎない。

 重要なのは、形状のメタモルフォーゼではなく、精神の「ゴッコ」なのだ。
モノの変化が、コトの変化でなければならない。その時、モノの変化が、絵を見る我われと絵の関係をも新しくしてくれる。絵を見る喜びとは、まさにそのことであったのだ。




感想文の感想 竜馬@管理人 - 2005/10/01(Sat) 11:17 No.3341   HomePage

東京出張中に短い時間拝見しましたが、いわゆる論理展開が竜馬@管理人の凡庸な頭脳では理解できず、「疲れているんだろう。札幌に戻ってゆっくりと読もう」とその場は逃げました(笑)
帰ってきて何度か読み返しましたが、久保さんの言わんとしていることが分かった様で分からない(「凡人に分かるか!」と言われれば“ガクッ”ですが)。
いつも通りのこじつけへの導入部分は良いのですが、中盤のデッサンに関する辺りから私の頭脳はオーバーヒート気味になって来ます。
藤井 高志さんや高橋 伸 さんの作品が幻想的な風景に人物を置いているのかどうかは別にして、「人物デッサン」が「顔デッサン」になり、「顔は表情」で、そして「社会的表情」へと展開され、「社会的羊蹄山」に至れば竜馬@管理人の左脳は社会的に沸騰してしまいました。
渡辺 貞之展のデッサン画の多かった理由は、単に企画者側の要望であったかも知れない(ガクッ)。
文末の、
>重要なのは、形状のメタモルフォーゼではなく、精神の「ゴッコ」なのだ。
モノの変化が、コトの変化でなければならない。その時、モノの変化が、絵を見る我われと絵の関係をも新しくしてくれる。

に至って、難解な文章を理解しようとした凡人竜馬を爽やかに思考停止に導いてくれました(笑)。
絵の世界と昭和60年代くらいは久保さんの多才にもついて行けると思っておりましたが敵いません。
絵を観るのが怖くなりました。

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