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いーとあーとブログ

展覧会情報(旧ギャラリーどらーる掲示板より)

2024'05.02.Thu
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2007'01.17.Wed
感想文 投稿者:久保AB-ST元宏 投稿日:2004/11/24(Wed) 16:20 No.2225   HomePage
 

個展『小島 和夫 展』
ギャラリーどらーる 2004年11月

~~ あらかじめ失われた半身を求める旅 ~~

2004年は、自然災害の多い年であった。
異常高温、繰り返される台風、水害。そして新潟での震度7の地震による避難民の数は10万人になった。
10万人の難民と言えば、遠い中央アジアや東ヨーロッパのことであると思い込んでいたニッポン人にとっては軽いショックであったであろう。
しかも今年は全国ほとんどの地域で自然災害が起こったので、新潟の地震報道を見るにつけ、「自分が最悪ではない」と被害者意識を相対化する役割を他者の情況が構築していった。その連鎖が生むものは「被害者意識のヒエラルキー」とでも呼びたくなるもので、「同情」はそれが生む磁場に比例して増幅された。いわゆるボランティアがその代表となる。
ただし私が感じるのは、ボランティアはけっして一方通行だけの善意ではなく、ボランティアされる側が救われるのと同じように、する側も同時に救われているということだ。
その背景には同情が内包する相対的な安心感が生む後ろめたさを癒す役割もあるだろうが、もっと大きな意志がそこには動いていると私は思うのだ。

とりあえずそれを、「あらかじめ失われた半身を求める」行為であると定義してみよう。
そう想えば私の思考は一気に旅を連想させる。

旅先で出会う全ての事象は、情報の有無にかかわらず、既知感の支配下にあると感じてしまう経験を持たない者はいない。
それが、「あらかじめ失われた半身を求める」行為である。
小島和夫は旅する画家である。
彼の旅は、遠い中央アジアや東ヨーロッパなどに赴く。それは現代世界に最も大量に流通されているハリウッド的アメリカから少しはずれた風景である。
面白いのは、使われている色がハリウッド的アメリカが好むヴィヴィッドな原色を中心としたものである点。全ての作品がそうであるから、個展会場は神聖なテーマを感じさせながら同時に華やかな祝祭のイメージを観る者に与えてくれる。ペルシャ絨毯や曼荼羅を連想するまでもなく、本来はこれらのヴィヴィッド・カラーは優れて民俗文化の特徴でもあったのだ。
しかし、それを現代の私たちが処理する時には、非凡な感受性と技術が必要になる。
たとえば、緑と赤の補色対比が画面上で両者の戦いにならずに、優しい共生と逞しい生活観の象徴になっていることに注目したい。
小島の特徴でもあるあの明るく若々しい青や、アース・カラーに近い黄色すらも緑と赤と共に画面上で共存しながらも個別の魅力を放っている。
技術の無い者が真似をすれば下品になってしまう危険性のある色使いを、まるで家庭料理を定時にテーブルに並べるかのように簡単にかつ軽やかに見せてくれる技の前では思考するよりも先に、幸福感に浸りたくなってしまう。

この色使いの成功の理由は、二つある。
ひとつは、ニュートラルな存在としての白の巧みな利用方法だろう。
ただし、小島の白は白として準備された白ではなく、顔料の塗り重ねと洗い流しを繰り返した結果、彼が納得した形状と色の上に置かれたものである。
私は、それを”偶然に拮抗する作家性の回答としての白”と見る。
作品「ホイアンの橋」の、ほぼ左半分を占める神秘的な白は、中央に赤い建造物を置いて、遠景と人物の帽子と籠の植物に黄色のバリエーションを点在させて、中央上の屋根から斜め下の人物の衣服にめがけてフレッシュな青を大胆に降らせている。ここで見られる、安定の赤、豊穣の黄、動の青の役割分担は偶然ではないだろう。
さらに小島ならではの工夫が、人物の足元に右に伸びてゆく白いラインである。この白が、左半分の茫洋とした白と打ち合わせをしたかのような安定感を準備しているのだ。
ここまで赤、黄色、青を総動員しながら色の存在を忘れさせているのは、やはり白の効果であろう。
ルノワールやマティスらが、三原色を使い「色のハーモニー」を見せてくれて、ピカソや岡本太郎らが「色の洪水」を見せているとすれば、小島は「色の気配」をそっと差し出しているように私には思えてならないのだ。
何度も顔料を流しながらも、重ねてゆく手法に、小島がモチーフにする遠国の歴史の重層の暗喩であると見ることもできるかもしれない。つまり、粘り強い反復の作業が歴史の重層を疑似体験するための「儀式」であるという見方も可能であろう。ただしそれは儀式であるがゆえ、作家本人からの告白を待ちたい。

さて、色使いの成功理由のもうひとつは、小島のざっくりとした形の捕らえ方であろう。
とにかく今回の個展を見て私の脳裏から離れないのは、「復活祭」に出てくる老人の指である。
私の数少ない絵画鑑賞経験でも、画家には「指を描きたがる」それと、「指に興味を持たない」それの二種類があると感じてきた。そして、多くの画家は指を細く伸びる繊細な言語として描こうとしてきたと思う。
ところが、小島の描く指は太く丸い。
この絵は最前に立つ少年の着ているセーターとシャツで、赤、緑、青を先に提示し終えておき、後景の聖人が描かれた煉瓦の上のステンドグラスのような図と少年を橋渡しする媒介のように老人が存在している。やや胸をはって未来を見つめる少年と、やや猫背で少年を守りながら上目使いで少年と同じ方向を覗くように見る老人。二人は同じものを見ているのだが、同じようには見えてはいないのではないかと、私に想像させる。それは、題の「復活祭」が持つ多義的なイメージと直結する。老人の指に代表されるように人物は骨太に描かれてはいるが、ほんのわずかな角度の差が演出する繊細な曲線が二人の人物の背骨のラインを利用しつつも、二本隠されていることを見抜くのは、容易だ。
この造型スタイルが、小島固有の色使いと密接に結びついているのだ。

また、小品の「咲く」(SM)や「アネモネ」(SM)の細部に小島の弱点が発見できる。さらに、「胡同(北京)」(218×173cm)の屋根瓦の連続を描く時に集中が途切れたのではないかと、見抜くこともできるだろう。
それらは作家の弱点ではあるが、同時に作家の興味は色の方にあることを再確認させる補完でもある。
そして、今まで述べてきた色を表現するのに日本画は最も相応しい手段であると再確認できるのだ。
それでは日本画のジャンルの中で小島はどういう位置にいるのだろうか?
幼稚な回答で恐縮だが、彼は風景より人物に興味がある日本画家なのだろう。「路」というロバに乗って谷間を移動する魅力的な作品もあるが、これも小島は風景よりも民俗的な生活の面白さに題材を求めたのであると思う。そう考えれば、小島の特徴である色は、自然界の描写ではなく、どれもが家屋や衣服などの人工物による赤、青、黄色、緑なのである。
小品において鮮やかな色の花を好んで描いていることと比べてみると、面白い事実である。小品は小島にとっての色を捕らえるリハーサルであるのか。または自然界の花に匹敵する美しい人工の色を求めるために彼は遠い中央アジアや東ヨーロッパへと旅をするのだろうか。そうであれば彼は大自然を描きに、それらの土地へ行く画家たちとは一線を画する。
つまり、小島の旅は、大自然を描きに行ってるのではなく、「人間に逢いに行ってる」のだ。
人種や宗教や、ましてや老若男女の隔たり無く、逞しくも魅力的に描かれている人物たちを小島の絵を通して見ている私たちも実は彼らと「再会」しているのではないか、という幸福な錯覚を一瞬感じてしまう。
ボランティアされる側が救われるのと同じように、する側も同時に救われている。・・・見ること、描くこと、出会うこと。そして、見られること、描かれること、出会うこと。それらは同時に補完しあうことでもある。
ただし、それを実現するためには創造的な熱量が必要だ。安易なボランティアがすぐに底の浅さを露呈してしまうように、誰でもが旅をすれば絵を描くことができるわけではない。
そこに、もっと大きな意志が動いているのだ。
とりあえずそれを「あらかじめ失われた半身を求める」行為であると定義してみたのだが、もしかしたらそれは大きな意味での「家族」の再構築の意志なのかもしれない。
小島の絵が我々に「再会」させてくれる懐かしくも、新鮮な人々はそれを感じさせてくれている。



Re: 感想文 竜馬@管理人 - 2004/11/24(Wed) 22:49 No.2227  

久保さん、又もや力作を「どらーる掲示板」でご披露くださってありがとうございます。

川畑 盛邦さん、富田 知子さんの評論は作品評と言うより作家の(画家の)リピドーを表出させようとする精神分析医の論文みたいでとても興味深く、そして『どうしてここまで絵画を視れるのだろう』と不思議に思っておりました。
と、同時に「小島 和夫評をどう書くのか」興味深々で投稿をお待ちしておりました。
あなたが、如何にも美術評論らしい文章を書こうと意図的に視点や文体を考える人でないことは承知しておりますので、尚更に楽しみにしておりました。
タイトルに「感想文」と記した久保さんの“テレ”を除けば、私ごときが申し上げる余地のない評論だと思います。
あなたが「書評道場」で磨かれた本の読み方や、膨大な読書量に裏打ちされた文章力は既に知られていることですが、絵を視る感性の豊かさにも今更ながら驚かされます。

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2007'01.17.Wed
小島 和夫展が 投稿者:竜馬@管理人 投稿日:2004/11/07(Sun) 11:18 No.2151  
 

2151.jpg 11月2日の「読売新聞」紙上で「小島 和夫展」が紹介されておりました。

技法の話など結構長時間の取材でしたが、記事は一般的なものでした。あの記事を書くのにあれだけの取材をしなければならない記者と云うのも仕事も大変ですね。

小島さんは昨日午後から夕方まで在廊されておられましたが、本日も午後からおられるそうです。
お会いしたいしてみたいと思われる方はお出かけくださいましたら幸いです。

2007'01.16.Tue
お詫び 投稿者:竜馬@管理人 投稿日:2004/11/01(Mon) 10:40 No.2105  
 

昨日は10月の「富田 知子展」が終了し、11月の個展「小島 和夫展」にギャラリーの壁が変わった日でありました。

そのお知らせもせねばならなかったのに、又もやサーバー不具合が発生いたしました。
昨日夕刻よりつい先ほどまで当社のあらゆるネットが途絶いたしておりました。

せっかくHPをご覧頂こうと思われた方には大変なご迷惑をおかけ致しましたことをお詫び申し上げます。
サーバー移行の手続きは進めておりますので、ご容赦ください。



すごい! カリメロ@絵画堂 - 2004/11/02(Tue) 00:56 No.2112   HomePage

トップ、リニューアルされたのですね!なんだかとっても進化していて羨ましいです。うちはなかなか進歩しないんですよ~!どうすればもっと素敵なHPになるんでしょうか~。やっぱり根気ですか!?いつもいつもお忙しいのにどんどんいろんな事をこなして、竜馬さんはどうしてそんなにお元気なんですかあ(*^v^*)



すごい!! Usagiichi - 2004/11/02(Tue) 04:35 No.2113  

サーバーの不具合で,つながらない!!と思っていたら,このトップページ!!もう,感動ものです。トップページにこんなふうに作品や写真がupしてもらえるのなら,どらーるで僕もわたしも展覧会をしたい!!と,各方面の方々の思われるのではないでしょうか。いいぞいいぞ!!竜馬@管理人様の美的センスが磨かれていく様子を拝見して,これまた,うらやましい限りです。これからも楽しく拝見させていただきます。通りすがりの者でした。



Re: お詫び 竜馬@管理人 - 2004/11/02(Tue) 06:20 No.2114  

2114.jpg カリメロ@絵画堂memeさま、Usagiichi 様

早速気がついていただきありがとうございます。
たいそう過分なお誉めを頂きましたが、フラッシュというソフトを使い、画像を動かしただけなんです。
東京の、とあるギャラリーのHPで行っていたのをパクッてしまいました(笑)。
しかも、この作業は 岩松という当社の若い社員に作ってもらったので、私はただ『やれッ!』と口を動かしただけなんです(汗)。

昨夜、オープニングパーティー終了後自宅でパーティーのスナップ写真を処理しておりました。
お昼頃までにはUPしたいと思います。

寒くなりますから、身体に注意されてくださいね。

2007'01.16.Tue
「小島 和夫展」オープン 投稿者:竜馬@管理人 投稿日:2004/11/01(Mon) 10:54 No.2106  
 

2106.jpg 日本美術院(院展)の特待で、札幌市立高等専門学校教授の小島 和夫さんが北海道で初めての本格的な個展でありまして、多くの注目を浴びておられます。
ダイレクトメールの写真に掲載された絵があれ程大きいのには驚きました。
大勢の皆様のご高覧をお待ち申しております。

尚、作品の一覧はトップページ「今月の展覧会」からご覧になれますが、下記URLをクリックしていただきましてもそのページに入ることができます。

http://d1.doral.co.jp/gallery/opening/0411/tenji/index.html

2007'01.16.Tue
個展『富田 知子展』 投稿者:久保 元宏 投稿日:2004/10/27(Wed) 11:03 No.2078  
 

~~ 豊潤な未完成の重層の中へ ~~

もはや私(たち)は「成熟」に魅力を感じるほど若くは無い。
退屈な答えよりも、野蛮な質問に可能性のヒントを求めようとする。そんな時、優れた絵画は私の前に野蛮な質問として立ちはだかる。
記憶の重層が小説であるとすれば、感情の重層が絵画なのだろうか。しかし残念ながら私には、「記憶」とは何かを説明することはできるが、「感情」とは何かを説明する能力は持ち合わせていない。
例えば『否んだ祈り』(F130)の画面上を右上から左下に向けて不安定なドロッピング・ラインのように引かれた厚みのある細い線。その線は当然のように漆喰のような絵具で塗り消され、線の厚みのみが遠い記憶のように印象的に残されている。
ここまでは現代絵画の常套手段なのだろう。ところが、その消された線の右上のほんの少しの部分のみに、ためらい傷のような茶色い線がかすかに慎重に引かれつつ、途中でその作業が止められている。
いわゆる「ストロークの快感」があるとすれば、これは「末端過敏症の病歴」であろう。

画家の持つ野蛮は衝動的に見える大胆な筆さばきだけではなく、どうしようもなく細部にこだわる習性にも宿っているのだ。このように野蛮は、相反する方向の力学にも宿っている。
画家の孤独な作業の途中で自らの野蛮に気が付いた時に、それに対峙する理性を置こうとすれば、絵画が持つことができる唯一の言葉の場所は絵の題ということになる。
しかしそれは危険な場所でもある。必要以上に画家の弱味を見せてしまう場合もあるからだ。
富田の場合は、その危険に無防備に乗る。そもそも先にあげた『否んだ祈り』という題などは、過剰な説明をしてしまっている。
直線を垂直と水平に重ねれば十字架になり、それを45度傾斜させれば否定を意味するバツになる。その発見こそが富田のパテント(?)である。
本来は相反する概念である「祈り」と「否定」とは、たったの45度傾斜の差しかない、と言う発見は強烈に現代的なメッセージを持つのだがそれを題=言葉にしてしまわなければ気がすまない過剰さが富田の身の上である。
だがこうして弱点になる危険性を犯してでも成熟よりその手前の偉大なる未完成のまま路上の店開きを繰り返す作者の意志を感じる。

このように今回の個展の絵の題は形容詞や副詞で名詞を説明するパターンが繰り返されている。たとえば、『渇いた領域』(F100)『渇いた伝言(翼)』(F100)のように。
ポジティヴな名詞をネガティヴな装飾で別の意味にするのは初級詩人の好む作業だが、富田の作品の前で重要なのは、あえて説明に近い題を選んでいる作者の切なる触媒への強い意思であろう。
そうであるならば、富田は観る者に何を伝えたいのであろうかという方向へ興味は動く。
富田の作品に登場する魅力的な形状として、十字架の他に楕円がある。それは雲なのか、卵なのか、繭なのか。
十字架や×がどんなにそれぞれ固有の方向性で主張しようとも重力の中での相対に過ぎないという男性的な社会的存在に対峙するかのようにその楕円は重力にも方向性にも自由に描かれている。
そう気が付いてから『渇いた領域』を見直すと、画面いっぱいに大きく描かれた十字架と背景との間にあるいびつな隙間にドキリとさせられる。
十字も円も外へ向かおうとする運動が生む形状である。しかし何故、十字架やバツは死の匂いがするのに、円は生の可能性を感じさせてくれるのだろうか。
円には外に向かう運動と同時に内側に向かう運動も内包されているからではないだろうかと思う。
そう考えれば十字架が隙間(=渇いた領域?)を背負う構図が、富田の選ぶ独特の色で描かれた時の凄みが理解できるような気がする。
論旨がいきなり図式的になって恐縮だが、十字架と×が男性社会及び男的なものの象徴であるのに対して、楕円が女性的なものの象徴であると考えてしまいたい。
この楕円は、繭なのだ。繭、つまり生命が育まれる場所。または豊潤なスタート・ライン。
富田が少女を描こうと模索していることと同じ作業である。
やや目の吊りあがった硬質な印象の少女は、繭から出てきて十字架とバツが共存する社会に立たされた存在なのだろうか。

絵に登場するモチーフは、こうして次から次へ前出のイメージを相対化してゆく。
『渇いた伝言』(F150)ではもはや人間そのものが繭となり、人間とは卵から生まれた卵なのだと言う入れ子状態の「希望」が厳しく描かれる。
そこでは十字架すらも繭化しようとしている。浮かぶ繭は天使なのか?確かに少女と天使のイメージは、いくつかの既成概念で重ねることができる。
しかし富田は微笑む少女を描かないように、『渇いた伝言(翼)』では脆弱しきった翼を、死のイメージで描く。
こんなに厳しい画風で翼を描いた画家は、かつていただろうか。
つまり、確かに少女も天使も象徴として描かれてはいるのだが、既成概念のそれではなく富田の独自の象徴であるのだ。
視点を変えて言えば、既成概念をなぞるような誤解を生む絵は排除する必要があったのかもしれない。
ここに至って今回の富田個展の最重要作品を、私たちは脳裏で反芻する権利を獲得する。
それは個展に飾られないことによって、最大の役割を果たす作品『彼女にだって羽根がある』だ。
同じギャラリーどらーるの1~2月に本展の予告として飾られながら、今回には合わないと最終段階で展示されなかった絵だ。
春をイメージさせる暖色を背景に繭のような豊潤な腰を持った女性が大きな羽を掲げる作品である。
とても魅力的な絵なのだが、観客の期待を先回りした象徴の羅列と見えるかもしれない。
今回の『渇いた伝言(翼)』がその絵と対になって冬をイメージさせると感じるのは私の妄想だろうか。
展示されなかった絵がポリフォニーを演出しているのだ。
こうして偉大なるゆらぎが作家の中から螺旋状に放出されてゆくのを、「感情の重層」であると説明するのは薄っぺらであろうか。そのようなことなど延々と思いつつ、そろそろいつものように私は個展の最後に最も気に入った絵の前に立ってから会場を去った。
それは『作品No.1』(25×30)。中央の白いしたたりが、繭のように見えながら、さらに全体が繭の部分のようにも見える。この絵の記憶を深く自分に刻み込んで歩き出すのは幸福なことだ。
きっと作者自身もこれからの自分の目標は完璧な曲線の繭を描くこと、と感じているのではないだろうか。

そう思いながら私はギャラリーどらーるから屋外に出た。すると、遠くを歩いている人たちの輪郭がぼやけて見え、まるで繭があるいているように見えたのは、私が二日酔いのせいか?
それとも全ての人が十字架とバツを背負っているのと同じ理由で、全ての人は再び生まれてゆく繭であるからなのか?
何度でも生まれてゆく繭には、もはや成熟する必要は無い。



Re: 個展『富田 知子展』 竜馬@管理人 - 2004/10/27(Wed) 14:03 No.2080  

2080.jpg 久保さん、いつもに増しての労作で恐縮致しております。
1円にもならないのに、「ギャラリーどらーる」のHPを飾って頂きありがとうございます。

だけど、久保さんって不思議な方ですね。本格的に絵画作品と触れ合って日も浅いのに、絵描きが“グサッ”と来る視点を持ち合わせていることに驚きます。

こんなに個人的主観に基づいた評論は他に類を見ませんが、久保評論で書かれた絵描きさんには好評なんですよ。

そうか~・・、繭だったのか・・(笑)



『渇いた脳味噌(笑)』 久保AB-ST元宏 - 2004/10/28(Thu) 00:17 No.2083   HomePage

2083.jpg ■またまた、聖なるギャラリーどらーるの赤インクを無駄遣いしてしまい、繭にこもりたい気分です(笑)。

■そもそも、激しくも冷たい雨の降る沼田町の大徳寺で喪服の竜馬夫妻とすれ違ってから数時間後、私は喪服の繭から羽ばたき、ススキノの呑んだくれ蛾となっておりました。日本酒、焼酎、ウィスキー、生ビールと渡り歩き、最後に赤ワインが3本空いた時、たしか午前4時。1時間仮眠してからシャワーを浴びて、午前7時の高級リゾート・ホテルDORALに着いた時には、もうまぶたが繭のように腫れていました。で、その後は上記の私の作文通りです。
さらに、29歳の後輩に運転させて沼田町に帰って、午前10時からの告別式に参列させていただいたしだいでございます。
竜馬夫妻におかれましては、わざわざ沼田町まで来ていただいたのに、焼肉接待もせずに大変失礼をいたしました。ぺこり。

■ところで、私のホームページ『共犯新聞』のアドレスが、
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/3973/
から、下記に変更いたしました

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/

ので、「お気に入り」のアドレス変更をお願いいたします。
なに?「お気に入り」ではない?
こりゃまた失礼いたしました~(がくっ)。



Re: 個展『富田 知子展』 竜馬@管理人 - 2004/10/28(Thu) 12:58 No.2089  

2089.jpg 文中にある

『ここに至って今回の富田個展の最重要作品を、私たちは脳裏で反芻する権利を獲得する。それは個展に飾られないことによって、最大の役割を果たす作品『HARU・彼女にだって羽根がある』だ。
同じギャラリーどらーるの1~2月に本展の予告として飾られながら、今回には合わないと最終段階で展示されなかった絵だ。』

は、私のレスに添付したのですが、色味が違うとの指摘がありましたので、再度添付します。
この写真に写っている方々が、今回の展示から外すことを主張しました(笑)。



『彼女にだって羽根がある』 久保AB-ST元宏 - 2004/10/29(Fri) 21:33 No.2098   HomePage

2098.jpg ■『彼女にだって羽根がある』という題を読んで、
羽有(はる)という名前の女性を思い出しました。
添付の方が、そうです(がくっ)。
ちなみに、2001年生れです。
写真では、どうやら『アタイにだって羽根がある』とアピールしているようですが(再度、がくっ)。

■そんなワケで、上記の感想文(?)のタイトルを、当初は、
~~ 不在のポリフォニー ~~
にしようか?と思ってもいました。
しかし、選ばれなかった(=失われた&死んだ)作品よりも、選ばれた(=残った&死ねなかった)作品に支点を置くべきである・と、特に今回の個展は私に語りかけていましたので、タイトルとしては、ぶかっこう(=豊潤な未完成・笑?)ですが、相応しいほうを選ぶのが詩人の役割(←誰が?)ですもんで、こーしました(三度、がくっ)。

~~ 豊潤な未完成の重層の中へ ~~

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