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展覧会情報(旧ギャラリーどらーる掲示板より)

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2007'01.26.Fri
覗きの余韻 余韻の除き 投稿者:久保AB-ST元宏元議長 投稿日:2005/09/01(Thu) 09:03 No.3238   HomePage
 

最近は、どんな田舎町にでも街灯が整備されている。
私の住む、人口4,100人の町にも見事な街灯が行列を成していて、まるでゴースト・タウンな朝帰りなど、
人口の数よりも街灯の数のほうが多いのではないか?と、ふざけたくなるぐらいだ。
おかげさまで、酔っ払っていても足元が暗くて見えない不安は無くなったのだが、明るければ何でも見えるというわけでもない。
たとえば、星だ。
ご存知のように、星は、昼は見えないが、本当は昼でも出ている。
都会で星が見えないのは、光化学スモッグが原因であるよりも、人工的に造られた夜の「昼」のせいであろう。
実際、私の田舎町でも見事な街灯の足元では、晴れた日であっても星は数えるほどしか無いのに、郊外の暗闇に行って路上に寝転がれば、星は星の数ほど降ってくるのだ。

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黄れんじゃく F30
中野邦昭の絵を観る者は、 その執拗なまでにも描き込まれた木の枝を印象的に記憶する。
この細い木の枝にこだわる姿勢はどことなく神経症的ですらある。
実際、我われが現実の雑木林の風景を見る時であっても、彼の絵を観る時のように木の枝を気にするようなことはない。
「省略」のレベルとグレードによって画風の個性を表現する画家がいる一方で、中野は逆の手順を選択したかのようだ。
もちろん、その選択によって生き生きと表現されてくるモチーフがある。
たとえば、代表作「黄れんじゃく」の鳥や木の実がそれであろう。

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月の日 S30
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しだれ柳 M10

中野が神経症的に木の枝の描き込みにこだわる秘密の種をいくつか検討してみよう。

「しだれ柳」(M10)には魅力的なリズムを持った柳が上部から豊かに垂れ下がっている。
しかし、私にとってのこの絵の主人公は、その向こうに覗き見える水面の奥行きである。
風に揺れ、やや斜めになりながら、光を受けて白みを帯びた最前の柳。
上下にひかれ、闇に溶け込みそうな重たい色が身の上の、中景の柳。
左右に波を感じさせながら、奥行きの予感を味わう楽しみを準備してくれている川。
図形的に役割分担された構図である。
重要なのは、水面が色香を得るために、しだれ柳の葉が細かく描かれているという逆転である。

少々乱暴に言えば、芸術家的な水面の奥行きと、職人的に描かれた柳の細かい記述の二面性である。
我われは覗き見た水面の余韻を楽しもうと思いつつも、やはり柳を描いたドライな執拗さに圧倒される。
その両方の感情の重層性こそが、中野の絵が持つ個性なのである。
それでももちろん、中野はアクロバット的に驚かそうとしているのではなく、その画法は手法にすぎない。
中野にとって世界とは、彼が描く雑木林の細かい木の枝のようなものなのだろう。
そうして世界を描いた先に、彼は何を見ようとしたのかが重要なのだ。それは何だろうか。
まるで職人のように緊張感を持って慎重に描かれた細密な世界の前後で見え隠れしている「余韻」か?

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春の川辺 3号

「春の川辺」は、雪が割れて川面が少し見えてきたモチーフである。
この絵はけっして成功しているとは言えないが、中野の創作の秘密の種となる重要な作品である。
雪の割れ目は、生命や希望をイメージさせるのと同時に、エロティックな意味も含む。
単純化して換言すれば、覆い隠されているものの向こう側にある「生」への興味である。
この絵の存在が、「月の日」(F30)「月の日」(S30)「風の形」(S30)「濃昼 雪の日」(F30)などの
一連の木造家屋シリーズを描かせてきた秘密を知る種となると思う。
つまり、夜中に零れ落ちる木造家屋からの窓の明かりと、雪解けの川面の裂け目は同じなのだ。
おそらく、それぞれの裂け目の向こう側には闇の深さに匹敵する光の誘惑があるのだろう。
それらへの興味は、本質的な謎の存在や、光と闇の深さが先回りして準備していたのであろう。

中野は夜に浮かぶ木造家屋の窓の明かりに、月に匹敵する魅力的な「生活」の余韻を覗き見したのだ。
さらに彼は、その覗きの余韻が情緒を描くだけで安住しようとはせず、
そこに幾らかの批評的な部分が画家の無意識の好みとして描き加えられている。
それが、執拗に描かれた細かい木の枝である。
その余韻の踏みとどまりが、中野の優れたところであり、彼固有のバランス感覚が味わえる点である。
余韻を求め、同時に執拗な描き込みによって余韻を新触感へと誘い込む。
「春の川辺」が成功していないのは、雪では執拗な描き込みができないからかもしれない。

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初春 F10
中野が好む人物の特徴は、現代的な顔と、オリエンタルな「たたずまい」の同居である。
それは若い女性でなければ持ち得ない一過性の美ではある。
「春」や「トワイライト」など、中野が好む時は、そんな永遠の一瞬だ。
その人物がアンバランスながら、違和感無く魅力を発揮してくるのは正確にとらえた効果的な「姿勢」だ。
「姿勢」こそは、執拗な描き込みとは違った別の手法としての「余韻」だ。
この「姿勢」のとらえ方を風景画に導入した時にこそ、中野は「春の川辺」を完成させる
ことができるのではないだろうか。

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ペーズリー、しゃぼん玉、
ムスタグアータの夕
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札幌夜景(薄暮) 270×180cm

このように、中野の絵には細かくも複雑な描き込みが、大胆な主役を引き立てる舞台装置になっている。
回りくどい言い方をすれば、「ミニマムな劇的構図」とでも言おうか。
つまり、中野は細密画の文脈で、風景の主従関係をとらえ直そうとしているのではないだろうか?
絶対的な価値観が崩壊し、全てが過激に相対化される現代、中野の手法は愚直ながら正しい。

光が無くなることによって見えてくる夜空の星があるのなら、描き込まれることによって見えてくる光があるはずだ。
そして、星は昼でも出ているように、家屋の窓が輝かない昼でも「生活」は存在している。
そんな「生活」が主張の声を上げ始めるのが、「薄暮」の時間帯なのだろう。
他の光に邪魔されない、いわば暗闇の一等星のような木造家屋シリーズの窓の明かりとは違い、
札幌夜景シリーズでは夜空の星さえも消してしまう都会の明かりを点描する。
木造家屋シリーズでは、細密手法で描かれた無数の木の枝が、家屋のたった一つの明かりを演出したが、
札幌夜景シリーズでは無数の家屋の明かりを木造家屋シリーズにおける木の枝の細密手法で描く。
無数の家屋の明かりとは、画家が田舎道で見つけた一軒家の明かりに覗き見た「生活」が爆発したのだろうか。
この三連の絵を並べた大作には、木造家屋シリーズには見られなかった風景の起伏が「姿勢」を演じている。
木造家屋シリーズで唯一、「風の形」(S30)が枝のしなりで演じたセンスが画面全体でリズムをとっている。
画家はもはや、ひとつの窓や、早春の雪割れを覗き込む必要はない。
細密技法は美しい色の探求へと昇華される。
その時、大自然と我われの「生活」は、中野の画法によって和解することができるのだ。

 
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▲写真左から、
坂本 公雄(ギャラリーどらーる社長)、吉田 豪介(美術評論家)、中野 邦昭画伯



Re: 覗きの余韻 余韻の除き 竜馬@管理人 - 2005/09/01(Thu) 13:46 No.3246  

「黄れんじゃく」を代表作と言い切る久保さんにその感性の鋭さを見ました。

今回の評は直裁さが文体を支えているので、最初の導入の9行と最下段の写真は不要に感じましたが?

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