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いーとあーとブログ

展覧会情報(旧ギャラリーどらーる掲示板より)

2024'04.19.Fri
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2007'01.26.Fri
覗きの余韻 余韻の除き 投稿者:久保AB-ST元宏元議長 投稿日:2005/09/01(Thu) 09:03 No.3238   HomePage
 

最近は、どんな田舎町にでも街灯が整備されている。
私の住む、人口4,100人の町にも見事な街灯が行列を成していて、まるでゴースト・タウンな朝帰りなど、
人口の数よりも街灯の数のほうが多いのではないか?と、ふざけたくなるぐらいだ。
おかげさまで、酔っ払っていても足元が暗くて見えない不安は無くなったのだが、明るければ何でも見えるというわけでもない。
たとえば、星だ。
ご存知のように、星は、昼は見えないが、本当は昼でも出ている。
都会で星が見えないのは、光化学スモッグが原因であるよりも、人工的に造られた夜の「昼」のせいであろう。
実際、私の田舎町でも見事な街灯の足元では、晴れた日であっても星は数えるほどしか無いのに、郊外の暗闇に行って路上に寝転がれば、星は星の数ほど降ってくるのだ。

14.jpg
黄れんじゃく F30
中野邦昭の絵を観る者は、 その執拗なまでにも描き込まれた木の枝を印象的に記憶する。
この細い木の枝にこだわる姿勢はどことなく神経症的ですらある。
実際、我われが現実の雑木林の風景を見る時であっても、彼の絵を観る時のように木の枝を気にするようなことはない。
「省略」のレベルとグレードによって画風の個性を表現する画家がいる一方で、中野は逆の手順を選択したかのようだ。
もちろん、その選択によって生き生きと表現されてくるモチーフがある。
たとえば、代表作「黄れんじゃく」の鳥や木の実がそれであろう。

15.jpg
月の日 S30
24.jpg
しだれ柳 M10

中野が神経症的に木の枝の描き込みにこだわる秘密の種をいくつか検討してみよう。

「しだれ柳」(M10)には魅力的なリズムを持った柳が上部から豊かに垂れ下がっている。
しかし、私にとってのこの絵の主人公は、その向こうに覗き見える水面の奥行きである。
風に揺れ、やや斜めになりながら、光を受けて白みを帯びた最前の柳。
上下にひかれ、闇に溶け込みそうな重たい色が身の上の、中景の柳。
左右に波を感じさせながら、奥行きの予感を味わう楽しみを準備してくれている川。
図形的に役割分担された構図である。
重要なのは、水面が色香を得るために、しだれ柳の葉が細かく描かれているという逆転である。

少々乱暴に言えば、芸術家的な水面の奥行きと、職人的に描かれた柳の細かい記述の二面性である。
我われは覗き見た水面の余韻を楽しもうと思いつつも、やはり柳を描いたドライな執拗さに圧倒される。
その両方の感情の重層性こそが、中野の絵が持つ個性なのである。
それでももちろん、中野はアクロバット的に驚かそうとしているのではなく、その画法は手法にすぎない。
中野にとって世界とは、彼が描く雑木林の細かい木の枝のようなものなのだろう。
そうして世界を描いた先に、彼は何を見ようとしたのかが重要なのだ。それは何だろうか。
まるで職人のように緊張感を持って慎重に描かれた細密な世界の前後で見え隠れしている「余韻」か?

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春の川辺 3号

「春の川辺」は、雪が割れて川面が少し見えてきたモチーフである。
この絵はけっして成功しているとは言えないが、中野の創作の秘密の種となる重要な作品である。
雪の割れ目は、生命や希望をイメージさせるのと同時に、エロティックな意味も含む。
単純化して換言すれば、覆い隠されているものの向こう側にある「生」への興味である。
この絵の存在が、「月の日」(F30)「月の日」(S30)「風の形」(S30)「濃昼 雪の日」(F30)などの
一連の木造家屋シリーズを描かせてきた秘密を知る種となると思う。
つまり、夜中に零れ落ちる木造家屋からの窓の明かりと、雪解けの川面の裂け目は同じなのだ。
おそらく、それぞれの裂け目の向こう側には闇の深さに匹敵する光の誘惑があるのだろう。
それらへの興味は、本質的な謎の存在や、光と闇の深さが先回りして準備していたのであろう。

中野は夜に浮かぶ木造家屋の窓の明かりに、月に匹敵する魅力的な「生活」の余韻を覗き見したのだ。
さらに彼は、その覗きの余韻が情緒を描くだけで安住しようとはせず、
そこに幾らかの批評的な部分が画家の無意識の好みとして描き加えられている。
それが、執拗に描かれた細かい木の枝である。
その余韻の踏みとどまりが、中野の優れたところであり、彼固有のバランス感覚が味わえる点である。
余韻を求め、同時に執拗な描き込みによって余韻を新触感へと誘い込む。
「春の川辺」が成功していないのは、雪では執拗な描き込みができないからかもしれない。

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初春 F10
中野が好む人物の特徴は、現代的な顔と、オリエンタルな「たたずまい」の同居である。
それは若い女性でなければ持ち得ない一過性の美ではある。
「春」や「トワイライト」など、中野が好む時は、そんな永遠の一瞬だ。
その人物がアンバランスながら、違和感無く魅力を発揮してくるのは正確にとらえた効果的な「姿勢」だ。
「姿勢」こそは、執拗な描き込みとは違った別の手法としての「余韻」だ。
この「姿勢」のとらえ方を風景画に導入した時にこそ、中野は「春の川辺」を完成させる
ことができるのではないだろうか。

10.jpg
ペーズリー、しゃぼん玉、
ムスタグアータの夕
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札幌夜景(薄暮) 270×180cm

このように、中野の絵には細かくも複雑な描き込みが、大胆な主役を引き立てる舞台装置になっている。
回りくどい言い方をすれば、「ミニマムな劇的構図」とでも言おうか。
つまり、中野は細密画の文脈で、風景の主従関係をとらえ直そうとしているのではないだろうか?
絶対的な価値観が崩壊し、全てが過激に相対化される現代、中野の手法は愚直ながら正しい。

光が無くなることによって見えてくる夜空の星があるのなら、描き込まれることによって見えてくる光があるはずだ。
そして、星は昼でも出ているように、家屋の窓が輝かない昼でも「生活」は存在している。
そんな「生活」が主張の声を上げ始めるのが、「薄暮」の時間帯なのだろう。
他の光に邪魔されない、いわば暗闇の一等星のような木造家屋シリーズの窓の明かりとは違い、
札幌夜景シリーズでは夜空の星さえも消してしまう都会の明かりを点描する。
木造家屋シリーズでは、細密手法で描かれた無数の木の枝が、家屋のたった一つの明かりを演出したが、
札幌夜景シリーズでは無数の家屋の明かりを木造家屋シリーズにおける木の枝の細密手法で描く。
無数の家屋の明かりとは、画家が田舎道で見つけた一軒家の明かりに覗き見た「生活」が爆発したのだろうか。
この三連の絵を並べた大作には、木造家屋シリーズには見られなかった風景の起伏が「姿勢」を演じている。
木造家屋シリーズで唯一、「風の形」(S30)が枝のしなりで演じたセンスが画面全体でリズムをとっている。
画家はもはや、ひとつの窓や、早春の雪割れを覗き込む必要はない。
細密技法は美しい色の探求へと昇華される。
その時、大自然と我われの「生活」は、中野の画法によって和解することができるのだ。

 
e16d882c.jpg
▲写真左から、
坂本 公雄(ギャラリーどらーる社長)、吉田 豪介(美術評論家)、中野 邦昭画伯



Re: 覗きの余韻 余韻の除き 竜馬@管理人 - 2005/09/01(Thu) 13:46 No.3246  

「黄れんじゃく」を代表作と言い切る久保さんにその感性の鋭さを見ました。

今回の評は直裁さが文体を支えているので、最初の導入の9行と最下段の写真は不要に感じましたが?

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2007'01.25.Thu
光陰矢の如く・・・ 投稿者:竜馬@管理人 投稿日:2005/08/24(Wed) 17:44 No.3220  
 

3220.jpg それにしても日時の過ぎ行く速度が日増しに速くなって行く感がします。
「光陰矢の如く、少年老い易く学成り難し」(ガクッ)
昔から言われておりますが、最近は特に強く感じております。
ギャラリーどらーる「中野 邦昭展」も残るところ一週間となりました。
9月は深川市の渡辺 貞之さんの個展が待っております。
パーティーはどの様になるでしょうか?
お料理は多めに用意しておきます。溢れんばかりのお客様がいらしてくださることを願っております。
北空知のご一行がJRの団体切符で来られると良いですね。
添付の画像は渡辺 貞之さんが2002年の作品に手を入れて、制作年月日を2004と上から訂正したものです。
渡辺さんらしくアバウトで良いですね。

2007'01.23.Tue
輪郭の消滅、印象の爆発 投稿者:久保AB-ST元宏 投稿日:2005/07/30(Sat) 09:17 No.3140   HomePage
 

夏だ。
古今東西、夏になれば人々は、海や山に行くらしい。
その理由は「そこに海や山があるから。」であるのだから、「そこにパチンコ屋があるから。」と言う人にとっては、パチンコ屋は現代の海や山なのだろう。
そう言えば、最近、『海物語』というパチスロの機種があるらしい・が。

海も山も、人々を惹きつける存在でありながら、同時に(=だからこそ)、それぞれ畏怖すべき巨大な神秘を抱えた存在である。
その両者を「自然」とくくって満足する手もあるが、それぞれの畏怖はまったく違う種類のはずである。
例えて言うのであれば、海の放つ畏怖の根拠は、その絶え間ない「変化」であろう。
また、山のそれは、遅延化された「変化」が先回りして待っているという予感が準備する不安から生れる。
つまり、「変化」という情報が、受け手の許容力より過激に早いのが海であり、過激に遅いのが山である。
そして、早くても、遅くても受け手は畏怖を感じることになるのだ。
それが「非日常」ということであり、そこにレジャーの価値も生じている。

画家にも、海彦と山彦がいるのかもしれない。
単純に、「海を見て育った画家」、「山を見て育った画家」という分類でも、それなりに作風の差異が楽しめる。
また、「海を描く画家」、「山を描く画家」には、その素材が画法に大きく影響している様を今まで私たちは数限りなく見てきたはずだ。

海彦と山彦を左右に持つ巨大なシンメトリーの中間に位置する、丁度いい「変化」が描かれているのが「自画像」なのかもしれない。
「海を描く画家」は、その早い「変化」を手に入れようと、ストロークの工夫を試みる。
「山を描く画家」は、その遅い「変化」を定着させようと、粘着性のある色の実験を繰り返す


では末永正子は、海彦か?山彦か?

そのポップなラインが演出する浮遊感、
カラフルな奥行きが提示する幸福感。

彼女の絵には、カラフルな絵が陥りやすい田舎臭さや、バカっぽさが無い。
その秘密は、原色から数歩ズレた色を探し当てることによって、
都会的で洗練された知的な空間を築くことに成功したからだ。



風・HANA・女 2003年 F120






『二人の風景』1998年★末永正子は、長年出品していた道展で、1998年、一躍出品作が注目を集めて協会賞を受けた。その翌年に新会友、次いで会友賞、会友賞と2回続き、そしてまた翌02年に会員となった画家である。このような軌跡で歩を進めた画家は、道展でもめずらしい。
二人の風景 1998年 F130 
道展協会賞








『女と花』 2000年 S100
女と花 2000年 S100 道展会友賞









『青い印象』 2005年 F50
青い印象 2005年 F50

私は彼女の絵を初めて見た時に、1968年に公開されたザ・ビートルズの
アニメ映画『イエロー・サブマリン』で使われた、楽天的な色と線を連想した。
1972年に札幌大谷短期大学油彩専攻科を卒業した彼女にとって、
この映画が提示した色彩感覚は、青春という第二次原風景(?)を形成する
ものであったのかもしれない。
しかしそうとは言っても、37年前の映画である。
両者に共通点を見つけてみたところで、無意味である。
ただ、楽天的な色と線が特権的に持つ魅力を、つまみ出すことは可能だ。
それは、徹底した非日常のみが提示できる、新しい経験であろう。
丸っこく原色のアニメ・キャラクターは、デフォルメの産物である。
末永の描く世界も、日常を昇華してゆくデフォルメの作業があったはずだ。
だから末永の作品は37年後のサイケではなく、彼女の必然なのである。

それでは、末永はこのスタイルを在学当時から続けていたのかと思えば、どうやらそうではないようだ。今回の個展は過去8年間の作品を観ることができるが、わずか8年前の作品が、まったく違ったスタイルで描かれていたことが確認できる。

道展協会賞の「二人の風景」(1998年、F130)は、近年の彼女の作品のキーワードであるポップ、カラフル、サイケ、おしゃれ、浮遊感、幸福感などとはまったく逆の作風である。
ただこの時期と現在の作風の相違を列挙する中で、とても興味深い発見ができる。

たとえば、現在の作風の中では脇役のように感じられる無彩色が、ここでは全面に渡って使われている。
さらに、この時代の白、灰色が現在の作風にまで引き続き使われ、同時に品を与える重要な役割をしていることに気が付かされる。
たとえば、「ピンクと灰色」、「水色と白」、これらの組み合わせが、「ピンクと水色」の組み合わせだけでは失ってしまうものをたくみに引き寄せているのだ。

この時期の、もう一方の特徴は、対象を徹底して「面」でとらえようとする姿勢である。
それは鉛筆デッサンの初期の訓練の延長かもしれないが、
面の重層が輪郭を浮かび上げる大きく手前で、あえて立ち止まって、独特の効果を現していたり、その一方で、人物に降り注ぐ光すらをも、「面」としてとらえる画家特有の過剰さがすでに現れている。
ここに見られるキュービズムは純文学的な高みを示しつつはあるが、まだ物足りない。
それは作者も気がついていたであろう。その証拠が点在するピンクや水色なのだ。

このわずか2年後に末永は、無彩色とビビッド・カラーのバランスを逆転させる。
2000年の「女と花」は私の好きな絵であるが、
この絵に登場する「女」は、まるで空間から切り抜かれたあとの空白のように描かれている。
「面」への関心を過剰に推し進める中で「輪郭」を持て余していた末永が、「面」を空白にすることによって「輪郭」を獲得したという逆転劇は感動的ですらある。
別の言い方をすれば、描かないことによって、初めて魅力的な「輪郭」を獲得したのだ。

それでも私に不満が言える余裕があるのであれば、ここで空白の「女」を浮かびあげたのが
「花」であるという選択である。
「花」とは、ある意味、かなり抽象的かつ特権的な存在である。
抽象的かつ特権的な存在を、抽象的かつ特権的に描いても限界があるのだ。
私は彼女の技法でこそ、リアルな日常の周辺を描いてもらいたい。
彼女の絵自体が「花」なのであるから、もはや「花」を描く必要はない。

だから、当然のことながら「卓上」(2005年、F10)や「風景」(2005年、F10)は、かなり魅力的だ。
それは、我われが知っている世界を、別の世界に変えてくれるからなのだ。


末永の変遷は、正しい。と、確信させてくれるのが「青い印象」(2005年、F5)だ。
おそらく彼女は「面」を愛しすぎたのであろう。
彼女に愛され選ばれた「面」は、つきっぱなしのストロボのように爆発し、輪郭をぶっ飛ばした。
強烈な光を獲得した「面」は、この世から輪郭を消滅させたのだ。
輪郭の消滅は、私に国境の消滅を連想させ、「青い印象」の前に再び立った時には、
この絵は、全ての地域が魅力的に光り輝いた時に国境が無くなった世界地図に見えてきた。

我われは現実世界においても、輪郭などは見てはいなかったのである。
輪郭が消滅した彼岸に、再び新しい世紀の印象派の日の出が今度は爆発しながら昇ってきたのだ。

そして主張する「面」は輪郭という境界が無くとも、対立せずに、見事なハーモニーを生み出した。
その時に重要な役割を果たしたのが先に触れた、ニュートラルな無彩色だ。
では、これらはのどかな雲なのだろうか?
いや、これは砕け散りながら融合と離散を繰り返す、絶え間ない「変化」としての「面」なのだ。
たとえるならば、海の波と、泡しぶき。のどかさからは、はるかにかけ離れたスピード感がそこにある。
ついに末永は「面」によって、ストロークを描いた。末永は、ずっと、海を見ていたのだ。



明日で会期も終わり 竜馬@管理人 - 2005/07/30(Sat) 21:03 No.3143  

何とか会期中に間に合ってよかった。

今日は一応出勤を致しましたが、午前中は眼科を訪れて脳神経外科での診断を報告しておりました。


連日の夜高行灯作りと、その後延々と続く飲み会をこなしながら評論です。
少しこじつけがきつ過ぎましたがテンポが良いので『アレッ。そうなのか』と思ってしまう。
私の「末永 正子観」が狂ってしまった(ガクッ)。



Re: 輪郭の消滅、印象の爆発 びっくりする人 - 2005/07/30(Sat) 21:07 No.3144  

久保さん短文ですね?
文面完結してますか?
完結させたのでしょうか?
見に行けない私には物足りないです!



シィーッ! 竜馬@管理人 - 2005/07/30(Sat) 21:16 No.3145  

レテなべさん!けしかけちゃだめですよ。
十分に長文ですよ。



Re: 輪郭の消滅、印象の爆発 竜馬@管理人 - 2005/08/02(Tue) 11:49 No.3155  

3155.jpg 昨日、中野 邦昭展オープニングパーティーで吉田 豪介先生と話している中で、久保さんのこの評論の話になりました。

「新聞記者なんかがあの文章を書くのはまずいと思うけれど、久保さんの立場ではなんら問題ないし、切り口というか作品に迫る視点が、美術関係者の思いつかないところから迫っていてとても面白いと思った。末永 正子がこれを読んだら喜ぶと思うよ」と話しておられました。

レテナベさんには理解できないかも知れませんが、北海道のトップの美術評論家が誉める評論みたいですよ。



長文の消滅、短文の爆発 久保AB-ST元宏@絶望 - 2005/08/02(Tue) 15:17 No.3157   HomePage

3157.jpg >見に行けない私には物足りないです!

■絵画を「見る」と同時に、「読む」能力&趣味のある、大阪在住のエルなべブルトン男爵にとっては、オリジナルの絵を観る特権に関しては不可能でも、評論は住む場所が離れていてもオリジナルが体験できますものね。

>新聞記者なんかがあの文章を書くのはまずい

■一応、『共犯新聞』記者なんですけど。がくっ。

>久保さんの立場ではなんら問題ない

■最近は、家庭内で「立場」が無い情況に追いやられそうなんですが。がくっ。
■先日、お肌の手入れにマジック・ペンを買いに行ったらしい岩松希望@社長賞立候補者さまが私の書いた感想文に画像とリンクを貼っていただく手間をかけていただき、ありがたく思っております。
その結果、下記の2つの画像を開いて比べてみると、なかなか面白い「面」の愉楽が楽しめますねぇ~♪
こーゆー楽しみは、オリジナルの画廊から離れた、こーゆーバーチャル画廊ならではの、オリジナルな楽しみ&発見ですね。
●末永正子「青い印象」2005年 → http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/4d002fdbbd229f81211208dc408d5cc5/1169520601
●モネ「印象・日の出」1874年 → http://art.pro.tok2.com/M/Monet/mo01.jpg



Re: 輪郭の消滅、印象の爆発 竜馬@管理人 - 2005/08/02(Tue) 17:08 No.3158  

先ほど末永 正子が挨拶に見えまして、1時間ばかり話をしておりました。
「奇怪文字サイン」の久保さんが、どらーるのHPに何やら書いていたと言う事は生徒さんから聞いていたそうです。
『難しくて分からなかったけれど末永 正子は海女なのか?』という内容だったと聞かされていたそうです(ガクッ)。
早速当社岩松希望@社長賞立候補者がプリントアウトしてご当人にお渡しいたしました。
『4点の添付画像を選択したことに感激しておりました。女と「花 2000年 S100 道展会友賞」は、自分の制作人生の基点となった作品で、これでこの先も絵を描いて行く自信が付いた作品である。
「青い印象 2005年 F50」の完成で、ギャラリーどらーるに絵を飾る勇気が出た作品である。
「風・HANA・女 2003年 F120」で、会員としての立場を自ら納得した契機となった作品である』とのことでした。

『何もお話していないのにどうして絵を見ただけで、私の制作人生のエポックを感じ取れたのでしょう?』と不思議がっておりました。
もう1点、「原色に近く、けれど原色から少しずれた色を使う」という意味のことが指摘されていた。まさしく彼女のこだわりの1点を久保さんが読み取ったことにも驚いておりました。
今、その文章を探してところすでに修正されたのか無くなっております(ガクッ)。



視力の消滅、資力の爆発 久保AB-ST元宏@願望 - 2005/08/03(Wed) 00:31 No.3160   HomePage

3160.jpg >探してところ

■いつに無く、誤字&脱字の多い竜馬氏のレスを読むにつけ、視力を心配しつつ、なれない筆をとりました。がくっ。

>「原色に近く、けれど原色から少しずれた色を使う」という意味のことが指摘

■それは、下記のくだりですね。

彼女の絵には、カラフルな絵が陥りやすい田舎臭さや、バカっぽさが無い。
その秘密は、原色から数歩ズレた色を探し当てることによって、
都会的で洗練された知的な空間を築くことに成功したからだ。

■同じ意味でも、私は美しい言葉を選ばせていただいております(がくっ)。
なぜならば、美しい絵に近づくには、それに見合う「投機資本」か、もしくは、それに見合う美しい「言葉」を与えることの二つに一つしか、絵を観る我われに許されてはいないからなのです(なんちゃって)。

>『何もお話していないのにどうして絵を見ただけで、私の制作人生のエポックを感じ取れたのでしょう?』

■それは&もちろん、私の力ではなくて、末永画伯の絵の力ですよね。

>奇怪文字サイン

■確か、最近の個展で『坂本順子 展』というのがありましたが、その報告記事が樺戸郡以北で流通している『北空知新聞』に掲載されたことがありました。その記事を書いた記者が、沼田町のALTの記事も書いていました。記事の最後の稀少苗字サインでわかりましたが、記事を締めくくる数行は「新聞記者なんかがあの文章を書くのはまずい」と思えるぐらい素晴らしいので、いつものように無断転載させていただきます。



Re: 輪郭の消滅、印象の爆発 竜馬@管理人 - 2005/08/03(Wed) 09:56 No.3162  

>■それは、下記のくだりですね。

彼女の絵には、カラフルな絵が陥りやすい田舎臭さや、バカっぽさが無い。
その秘密は、原色から数歩ズレた色を探し当てることによって、
都会的で洗練された知的な空間を築くことに成功したからだ。

あれっ?その件りは消えていなかった?
やはり視力が落ちていると見落とすのですねガックリです。
末永 正子は「彼女の絵には、カラフルな絵が陥りやすい田舎臭さや、バカっぽさが無い。」をとても喜んでおりました。
バカっぽいのは彼女本人なんです(ガクッ)。

・ALT問題→がんばってますね。都会人の竜馬@管理人には「外国人教師の導入による外国語・異文化交流」と言われても切実な問題に思えないし、大体行政や教育委員会に何らかの期待をする幻想を抱かないので、久保さんたちの行動が子供っぽくも見えるし、逆に新鮮でもあります。
一宿一飯の義理がありますので、もし町との出入りがある場合には助っ人として駆けつけますよ。

2007'01.23.Tue
末永 正子展オープニングパーテ・.. 投稿者:竜馬@管理人 投稿日:2005/07/02(Sat) 09:27 No.3050  
 

3050.jpg 昨夜、当ギャラリー始まって以来の「女性客」で賑わいました。
「女性客」が若い方々なのか、お年を召された方々なのかの質問には、「丁度良いお年頃の女性客」とお答えします。

当社、掲示板の竜馬@管理人代行の 岩松が今月も第1カメラ、小野 拓美管理人代行代理が第2カメラを担当しました。

第1カメラは三分の一失敗(3ヶ月連続)でしたが、何とか使える写真が60枚くらいありましたのでUPしました。
トップページ「今月の展覧会」から、オープニングパーティーにお入りください。

第2カメラは100%失敗で、相当修正してもやはりダメでした。どうしたら、こんなに失敗できるのか不思議に思いますので、「NG集」としてこれもUP致しました(笑)。

2007'01.22.Mon
末永 正子展 投稿者:竜馬@管理人 投稿日:2005/06/30(Thu) 17:53 No.3041  
 

3041.jpg 深川の展覧会で明け暮れているうちに、ギャラリーどらーるも壁が変わります。

「黒阪 陽一展」から「末永 正子展」に変わりました。
本日、地味にコツコツと作業する男衆を尻目に道展の“お嬢様軍団”がワイワイとお喋りをしながら飾りつけを終えました。

「全員B型かな?」と思うほど“おおらかな”飾り付けでしたが、何とか締まりました。

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